第四三回
貧よく暮らす:其の十三 嗜好品の心得
平成一九年七月三一日
非常事態発生。一時は悲鳴を上げるほど堪能することができた無農薬の夏野菜が、連日の猛暑に負けたとかでパッタリ途絶えてしまいました。あれほど華やいでいた冷蔵庫も今はひっそり。台所に立つたび鮮やかに思い出す、完熟トマトの色、ナスの艶、きゅうりの瑞々しさ。しばらくの間、がらんとした冷蔵庫を開けては、野菜たちが与えてくれた満腹感と幸福感を思い出す日が続きました。あの夢のような日々はもう、戻らない。
滅多に飲めない銘酒や、誕生日でもないのにケーキを頂いたりしたとき、それらの品物は私の中で『非日常的な贅沢』として区別され、特別な思い出となって心に残ります。けれど野菜は、おすそ分けに頂く機会が多く、私の中では『日常的なもの』として処理され、知らぬ間に、野菜に囲まれた生活が日々の暮らしに溶け込んでしまっていたのです。人はどんな環境にも慣れる動物である、とどこかで聞いた覚えがありますが、知らずに覚えた贅沢な暮らしを、もとの質素な暮らしに戻すまでの時間はとても長く感じられました。人は身勝手なもので、いい環境に慣れるのは早く、厳しい環境に慣れるには時間がかかる動物なのです。
自分の畑を失った、と勘違いするほどに受けた衝撃からようやく立ち直りかけた頃、別の知人がコーヒーを持って訪ねてくれました。袋を開けたら、インスタントではなく粉のコーヒー。粉のコーヒーを貰うなんて、何年か前、水出しコーヒーに嵌まっていた友人に貰って以来のこと、しかも、今回は私が好きなモカブレンド。うちにコーヒーメーカーが無いのを知っているので、これだったら電気も使わないし、場所も取らないからと陶器のコーヒードリッパーまで買ってきてくれたのです。
部屋いっぱいに広がるコーヒーの香り。いつになく話もはずみ、知人を見送った後、ふと、ドリッパーが目に留まりました。日に三度は飲むのでコーヒーを買うときには財布を気遣い、安いインスタントコーヒーを選んでいる、けれど、陶器のドリッパーが手に入ってしまった以上、心中穏やかでは居られない。手間がかかる分、インスタントコーヒーとは比べ物にならなかった味と香り。今まで、インスタントコーヒーは安いから、という理由で選んでいたけど、あれを選ぶってことは便利さも追求していることになるのかな。真夏には、水で溶いたのに牛乳を混ぜて飲んだりしているし。なんてったって‘‘インスタント’’だもの。久しぶりのドリップコーヒーにどっぷり嵌まった私、その舌は脱インスタントコーヒーを促しているのです。
毎日欠かすことの無い嗜好品こそ、いいものを飲みたい。そうよ、コーヒーは嗜好品。美味しいほうがいいに決まっている。安いからと日に三度も飲んでいたけれど、日に一度だけ自分で淹れたものを楽しむのなら財布も許してくれるだろう。そのために、晩のおかずが一品減ってもかまわない。半ば無理やりな理屈で自分を納得させながら、日々の暮らしに「コーヒードリッパー」を加えることにしたのは言うまでもありません。
不思議なのですが、ドリッパーで淹れたコーヒーはカタカナより漢字で「珈琲」と書いたほうが、味と香りが伝わるような気分にさせられます。今まではコーヒーを飲んでいたけれど、これからの私は違う、珈琲を楽しむんだ。私の大好きな珈琲を飲む時間は、『日常的なもの』や『非日常的な贅沢』に区別するのが難しく、『こだわり』に分類することに決めました。私の中で「こだわり」とは、オムレツを焼くときの香りつけのバターと同じ、贅沢の一歩手前の『日常と非日常の狭間』として区別され、心の贅沢を楽しむことが出来るものなのです。
筆者紹介:ようかん
日本生まれ、国内在住。
図書館で出会った「貧乏神髄」に惹かれ、会長のサイト見たさにパソコンを覚え今に至る。
猫好きだが借家のため飼う事が出来ず、
二匹の招き猫と暮らしている。
過去のひとくち
第一回
会長は左利き!?
第二回
知恵袋
第三回
貧的生活
第四回
小さな戦い
第五回
御利益
第六回
貧句
第七回
冬支度火鉢編
第八回
火鉢事始
第九回
文質彬彬
第一〇回
夢合わせ
第一一回
貧者の銭失い
セピアな色に染めないで
其の一
お弁当箱
其の二
遺されたもの
其の三
かめ
其の四
叔母の残像
其の五
赤いミキサー
其の六
かせくり器
其の七
薔薇のつめきり
其の八
竹行李
其の九
卓上時計
ちょっとひとくち第二部
第二一回
たまごひとつ分のしあわせ
第二二回
タオルの価値
第二三回
貧の楽しみ:花
第二四回
貧の楽しみ:家
第二五回
貧の楽しみ:衣
第二六回
貧の楽しみ:肉
第二七回
貧の楽しみ:薬
第二八回
貧の楽しみ:本
第二九回
貧の楽しみ:道
第三〇回
貧の楽しみ:髪
第三一回
貧よく暮らす:貰い物の心得
第三二回
貧よく暮らす:スーパーでの心得
第三三回
貧よく暮らす:台所の心得
第三四回
貧よく暮らす:衣類の心得
第三五回
貧よく暮らす:「鍋」の心得
第三六回
貧よく暮らす:入浴の心得
第三七回
貧よく暮らす:就寝の心得
第三八回
貧よく暮らす:春の鼻
第三九回
貧よく暮らす:飲酒の心得
第四〇回
貧よく暮らす:こころの心得
第四一回
貧よく暮らす:ナメクジの心得
第四二回
貧よく暮らす:食の心得
第四三回
貧よく暮らす:嗜好品の心得
第四四回
貧困歌
第四五回
貧困歌
第四六回
財布の御機嫌
第四七回
師走の閑話
第四八回
心の奥で想うこと
第四九回
軒下ものがたり
第五〇回
【春・貼る・張る】
ようかんのちょっとひとくち 耐乏PressJapan.
発行:全日本貧乏協議会
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