ようかんのちょっとひとくち
セピアな色に染めないで

豊かな暮らしのために頑張ったあの頃の大人たち
必要なものは全て手にいれたはずなのに
新しい生活に戸惑い、自分を見失った者たちは
絶えず何かを求めつづける


 生まれてから小学校へ上がる頃まで長屋に住んでいた。
我が家は長屋の中でも恵まれていた方で、汲み取り式ではあったものの家の中にお便所もあったし、トタン板で囲った内風呂もあった。
風呂の手前、文字通りの土間の台所には井戸ポンプがあり、その隣には木製の流し台。そしてまたその隣には『くど』と呼んでいたかまどがあり、煮炊きはそのかまどと勝手口に置いた七輪で賄っていた。

 うちの横を流れるどぶ川に沿って家の裏手に回ると長屋が三棟向かい合わせになっている場所に出る。その中央のちょっとした空き地には共同井戸が設けられ、三軒長屋の一番右端の家の側面には長屋の住人達の共同便所があり、誰でも自由に使えた。

 長屋は四部屋あった。厳密に言えば3,5部屋かな(笑)。
三畳一間と、四畳半が二間。もう一つは板張りの三角部屋で食事をする時のみ使っていた。平屋の長屋で大人七人と子供二人、合計九人が同居。
わたしと姉、両親の四人は四畳半一間で暮らしていた。
当然のことながら子供用のタンスなど置けるはずもなく、長屋時代のわたしの持ち物は押入れにある行李の中に入れられていた。
寝間着。下着。普段着。クレヨンとぬりえ。お人形。
夜、家で遊ぶ時には先ず押入れから行李を引きずり出した。
竹で編まれた行李はわたしにとってはタンスであり、大切なお人形の家であり、クレヨンとぬりえを入れることが出来る引出しの代わりでもあった。
ううん、それだけじゃない。ぬりえで遊ぶ時のわたしの机にもなった。
フタをした行李は一見頑丈そうに見えるけど、ちょっと力をこめて押したりするとペコッとへこんでしまうので、ぬりえをする時には力をこめ過ぎないようにと気を使って遊んでいた。

やがて家は長屋から独立して二階建てに
それを機に我が家にモノが増え始める

 わたしたち親子四人は二階(四畳半二間)を使うことになり、瞬く間にモノが増え始めた。母親の鏡台。テレビ。姉の学習机。貰い物の二段ベッドまで二階の一室に運び込まれ、わたしと姉はどちらが上で眠るか争うことになる。
 そして、わたしにタンスが与えられ中身を失った行李は、ベッドの下に押し込まれ、やがて押入れの奥深くに入れられた・・。

 ・・わたしが親元を離れる時にダンボール箱の代わりにと久しぶりに押入れから出された竹の行李は、フタがつぶれることなくダンボール箱の役目を果たし、そのまま我が借家に居ついた。
今、行李は母から貰った古い着物を入れられ、我が借家の押入れを出たり入ったりしている。
古い着物で何を作ろうかと行李を押入れから出すたびに、まるで長屋全体がひとつの家族みたいだったあの頃の記憶が甦る。共同井戸での水遊び。誰でも自由に入れた共同便所のツンとくる臭い。バキュームカーのおじさんを尊敬の眼差しで見ていたこと。実の兄弟みたいに遊んだ幼馴染みたち。鼻水をたらして遊んでいると他所のおばさんが見つけて、鼻水を拭いてくれたことまで思い出してしまう(笑)。

 行李ひとつに全ての持ち物が収まっていた長屋時代のわたしの暮らし。
長屋は狭く窮屈な時もあったけれど、大勢の家族に守られていたのも事実だ。
あの頃のことを思い返すたび、色々な物で埋め尽くされている今の我が家を眺めてはため息をつく日が多い。
『必要なもの』と、『欲しいもの』
このふたつの境目がごちゃ混ぜになり、ともすれば自分にとって本当に大切な物は何かということを見失ってしまう弱い私の心を戒めるためにも、竹で編んだ古びた行李は私にとって必要な、そして大切な宝物だと思っている。

竹行李。現役の色をしています

−− 長屋での思い出は沢山ありすぎて
行李ひとつに収めるのは難しい −−
よ

招きます 筆者紹介:ようかん
日本生まれ、国内在住。
図書館で出会った「貧乏神髄」に惹かれ、会長のサイト見たさにパソコンを覚え今に至る。
猫好きだが借家のため飼う事が出来ず、
二匹の招き猫と暮らしている。

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ようかんのちょっとひとくち 耐乏PressJapan.
発行:全日本貧乏協議会
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