平成15年5月8日
学習院大学
情報処理と現代社会 講演
「貧乏人の歯軋り」
川上卓也

●自己紹介

 こんにちは、川上です。
 本日は、私なんぞの話を皆様に聞いていただけると言うことで、緊張しております。先ほども、手のひらに人の字を書いて飲み込んでおきましたが、間違って入るって書いてしまったのか、まったく緊張しております。
 まあ、工業高校卒業ですので漢字は苦手でして、実は貧乏神髄なんて本も書いたんですけれど、いや、パソコンというのは便利ですね。知らない漢字だってどんどん出てきて、ついつい使ってしまったら、書いた本人でも読めない本になってしまいました。

 貧乏神髄なんて大層な名前の本を書いたくらいですから、貧乏をしてます。印税ってのも、1冊出したくらいだと、まして無名の人間ですから、それほどのお金は入ってきませんで、アルバイトの収入で生計を立てています。なので肩書きを聞かれると、一番収入が多いのはアルバイトなんで「アルバイト店員」と答えているんですが、この講演をする際に学校に提出する書類はさすがにそれじゃあという馬渡教授のご配慮で、今日は「貧乏作家」としてやってまいりました。
 けど、作家と言われるとどうも首筋辺りがくすぐったいですね。実際はアルバイトで得た月々8万円ちょっとの収入で暮らしてまして、家賃3万、光熱費が7〜8千円、インターネット代が5千円ちょっと、あとは、貧乏な癖に喫茶店通いが好きなのでコーヒー代が1万5千円です。食費とか、その他の細かい出費は、残ったお金を丼勘定しています。収入が少ないので、家計簿を付けると虚しくなるからやらないです。

 まあ、だいたいそういう生活をしているなかで、インターネット上で自分の貧乏をさらけ出していましたら、なぜか本を出すことになりました。その本がなぜかそこそこ売れまして、まあ印税は少ないですけれど、ちょこちょこと新聞や雑誌なんかにも出てます。新聞に載るときは刑務所に入るときだとばっかり思っていたんですけど、まさかこんなこといになるとは思いませんでした。人生、何が起こるかわかりません。
 皆さんのこれからの人生も何が起こるかわかりませんから、私みたいな変な奴の話を聞いておくのも、もしかしたら何かの役に立つときが来るかもしれませんので、どうかお付き合い下さい。

● 貧乏とはなんなのか

 まず、私の言う貧乏というのは何なのかをご説明しておきます。
 貧乏というのは、自分のために使える時間を多く得るための生き方だと、私は考えています。これは単純明快なことでして、働く時間を少なくすれば、収入は減りますけれど、生活に必要なお金を少なくすることができれば、それでも生きていけます。会社に行って働くと、社会的な保証もあるし、会社は潰れない限りは給料も出るし、ボーナスなんてものもあります。けれど、一日の多くを拘束されてしまうし、毎日、そんなに多くの時間を働いていると、疲れますからお休みの日も寝てしまいがちです。いや、これは私が実際に会社で働いていた時の実例ですから、きちんと会社で働いても休日は自分のために時間を使っている人だって居ると思いますけれど、私の場合、もっともっと、多くの時間が欲しくなったので、会社を辞めてしまいました。

 23歳の時に、写真家になりたくなってしまったんです。
 なぜか急に、そんなことを思いついたんですけれど、実は、なぜ写真家を志したか、という理由は、実は覚えていないんですね。思いつきの勢いだったんだと思います。

 理由も不明なままに写真家を目指した23歳の私は、工業高校を卒業後に就職した会社で、汎用機と呼ばれている大規模な処理のできるコンピュータを操作する仕事をしていました。辞めた会社のこととはいえ、業務内容を詳しくお話ししてしまうと具合が良くないので内緒でお話ししますと、とある県の県庁に出向しまして、そこのコンピュータ室におりました。県庁といっても、あの中には民間人もたくさん働いて居るんですね。コンピュータなんて深く関わろうとすると特殊な世界ですから、お役所の人間に扱いきれるわけはありません。
 私も民間人として、税金やら人事の管理、県営住宅に関すること、といった様な情報を処理するためのプログラムを実行させて、プリントアウトされた物、まあ、督促状ですとか、森林資源の一覧表とか、治療が困難な病気の方々に発給される証明書ですとか、そういうものを仕分けして運ぶという仕事をしてました。
 高校を出たばかりの私がそういう仕事をできるようになるまでには、会社側だって時間とお金を使って育ててくれたわけですけれど、逆に言えば、時間とお金さえかければ代わりなんていくらでも育てられるわけですね。そういう部分で、これでよいのだろうかという思いはあったんでしょう。  会社だって時間は使ってるけれど、それは私の時間でもあります。人生という限られた時間を誰でもできるようになるような仕事に多く使われるよりは、自分のために使いたいと思っていたのかなあと思います。
 なんだか、自分の時間というものにとらわれすぎていやしないかと思われそうですけど、写真家を目指すにあたって、23歳という年齢ではすでに出遅れているなあという焦りはありました。高校生くらいのうちに写真の道を目指していれば、すでに写真学校などを卒業して弟子入りするなり、カメラマンとして働いている歳ですから、これだけの遅れを挽回するにはできるだけ多くの時間が必要です。
 とにかく、会社は辞めようと考えました。安定した収入が途絶えても、貧乏すればなんとかなると思ったんですね。
 まあこれも、芸術家というのは若い頃にみんな貧乏をしているし、なんていう程度の理由でしたけど、一日一食を食べられるかどうかの生活でも、お金を稼ぐために働くという煩わしさを少なくして勉強のために使える時間を増やせるほうが自分のためになります。それに出遅れた分、ぼくは5年ちょっとの会社勤めをしていましたから、退職金も出るし、失業保険の給付も受けられるし、ボーナスの出る月に辞めれば、なんだかんだで100万円くらいにはなります。それだけあれば、しばらくは働かずに暮らせるなあと、自分のためだけに時間を使えるなあと思ったんです。
 とりあえず辞められてしまうだけのお金が100万円ってのも、なんだか安い気がします。この国も、なかなか良い国に思えましたし、そんな国の豊かさにあやかって、僕は貧乏に降りていくことになりました。

● 貧乏計画

 会社を辞めて貧乏に降りると決めたとき、まず問題になったのが住む場所のことでした。当時、埼玉県の蕨駅、これは川口と浦和の中間にある駅ですけれど、ここから徒歩8分、1Kロフト付きで月々5万4千200円という物件に住んでおりまして、そんな家賃の高い部屋に住んでいたら、貧乏資金もあっという間になくなってしまいますし、その後も、家賃を稼ぐために多くの時間を使う羽目になりますから、引っ越しは避けられないだろうと考えました。
 まあこれも、四方を壁に囲まれてしまってまったく陽の当たらない部屋でしたから、会社を辞めなくても出ていきたいと思っていたところでして、貧乏にこじつけての引っ越し計画と言えなくもありません。
 でもまあ、そこでふと思いついたのが、いや、また思いつきなんですけれど、田舎なら都会よりも安く暮らせるのではないかってことでして、結局、茨城県の石下町というところへ引っ越ししました。
 私と石下町との間には、実はなんの関係もありませんで、当時、石下町についての知識はなにもありませんでした。長塚節も、平将門も、まるで知らなかったのです。なんでそんなところで物件を見つけられたのかというと、たまたま、知り合いに連れられて石下にある喫茶店に訪れたことがありましたから、その店でなにげに田舎に引っ越したい、なんて話をしましたところ、偶然にも見つかってしまった、という行き当たりばったりな話だったのです。
 渡りに船と申しますか、割とついていたのだと思います。

 これで、あとは辞表を出して引っ越しを済ませれば良い、というところまで来ましたけれど、後ひとつ、生活の足を確保する必要がありました。
 石下町は、数年後につくばエキスプレスなんてのが開通する予定になっていますつくば学園研究都市の西隣、東京から直線を引けば距離にして50キロメートルという、なんとなく近く感じられるように思える場所にあるんですけれど、なにせ片田舎の町ですから交通の便が悪いんです。
 よく、テレビ番組で地方を旅するなんてやつがありますけれど、そういうとき、線路が一本しかない、いや一本と言ってもモノレールじゃあなくて、二本が対になったひとつの線路で、周りは田圃や畑に囲まれて、遮断機のない踏切があちこちにあるようなやつの上を、列車が走っていくなんて風景がでてきたりします。東京から50キロしか離れていない石下町に来れば、そういう風景を観ることができるんですね。しかも、電車じゃあありませんで、電気じゃなくディーゼルエンジンで走るから電線はないんですね。遠目に見ると、まるでバスでして、アスファルトの道路をタイヤで走る車よりも遅く走るんです。これが、通勤時間帯でも1時間3本。それ以外ですと1時間に1本しか来ません。どこへ行くにも不便だってことはおわかりいただけるかと思います。
 車がなければ、フィルム一本を買うのも苦労してしまうという町で暮らそうというのに、私は運転免許を持っていませんでした。仕方なく、1998年の夏のボーナスで教習所に通いまして、11月には免許を取得できました。実は20歳の時にも通ったんですけれど、教官が気に入らなくて辞めちゃってまして。3年後の再挑戦。人間というのはそれなりに成長するものなんだなあと感心しました。

 この時点で、都会でそれなりの物件に留まるのも、田舎に引っ越すのも、コストは大して変わらないんじゃあないかとお気づきの方もいらっしゃるかもしれません。まあ、無知なままに突っ走っていたんですね。けれど、どうにも都会、と言っても埼玉でしたけれど、とにかくコンクリートの多い町で暮らすことに若干の疲れというか、違和感というか、そんなものを感じていたように思います。それに、都会に留まるより、生活環境全てをどかんと変えてしまった方が、やりやすいと思ったんですね。
 結論としては、この選択に間違いはなかったと考えています。

● 貧乏に降りていく

 とまあ、そんなこんなで会社を辞めまして、1999年の1月には石下町へと居を構えることになったわけですけれど、見つかった物件というのが、とんでもない所でした。
 南向きに三件の借家が並ぶその真ん中、太陽の光が一日中降り注ぎ、車一台ぶんの道を挟んで畑と田圃が広がり、その先には鬼怒川に架かる大きな橋。土手までは、20秒もあれば行けるという、会社員時代の住まいからすれば夢のような環境です。
 ここまではえらく素敵な住まいに聞こえるでしょうけれど、実はとんでもないボロ屋でして。一言で言い表すならば、廃屋寸前という代物でした。
 だいいち、大家は80歳を越える御大でして、借家の管理などまるでしておりません。それでも数年前までは外国人に貸していたようですけれど、次々に夜逃げをされてしまって今では誰にも貸していないという物件でした。
 陽当たりの良さ故に水周り以外の場所はカビたり腐ったりということはありませんでしたけれど、拭いても掃いても埃は消えないし、蜘蛛の巣は縦横無尽に張り巡らされているし、押入からはゴキブリの卵が手のひらいっぱいになるくらい採れるし、障子は骨が折れ、壁は酷くひび割れ、床は簡単に踏み抜けてしまうという状態でした。
 いちばん酷いのは風呂場で、いったい、何年前に張られたのかさえわからない水が残っているのですから……あとはご想像にお任せいたします。
 そんな惨状をひとつひとつ掃除して、畳の上を靴を履かずに歩けるようになり、この部屋で始めて寝袋にくるまって一夜を過ごせるに至ったときは、なんだかこう、貧乏をやっていけるという自信が沸いてきたのですね。これはもう、嬉しくて胸がいっぱいになりました。

 廃屋寸前の借家、室内は充分に住めるだけの掃除と修復を済ませられましたけれど、表の部分に関しては、大家に無断で片づけるわけにもいきませんで、これはちょっと苦労がありました。
 大家の爺さんというのが、どこからともなく廃品を拾ってくるのが大好きで、敷地内の至る所に壊れたテレビとか自転車、底の抜けた樽や一斗缶、壊れた風呂、ガラスのショーケースらしきもの、そういう物で溢れていました。こんなのが都内に存在したならば、きっとゴミ屋敷としてテレビ局が取材に来てしまう、そういう状況だったんですね。
 ジジイの宝物に囲まれたボロ屋。誰も住んでいない両隣の部屋は、数年前の夜逃げ当時の様子もそのままに留めていました。これはもう、貧乏長屋というネーミング以外には思い浮かびませんで、私は当時のことを貧乏長屋時代と呼んでおります。
 この貧乏長屋で、私は貧乏というやつに降りていきました。

 冒頭でも言いましたけれど、私は貧乏に転がり落ちたのではなく、自分の意志で貧乏という場所に降りていったんですね。
 住宅ローンを抱えたままリストラされて路頭に迷うようなこととは違い、充分に余力のあるうちに、自分の生活をリストラし、自らの意志で貧乏に降りていくということです。
 降りてみてわかったのは、貧乏というのは生活に必要なお金も、物も、少なくて済む。虚飾を振り払ったシンプルな暮らしなんですね。
 ローンの支払いに窮してカップラーメンでしのぐなんていう愚かな生活とはわけが違うわけです。  ずるずると今までの場所にしがみつこうと必死になりながら落ちていく貧乏ではなく、少しずつ、自分の意志を持って生活を小さくしていくんです。実際、これはそれほど大変なことではありません。
 今では月に8万円もあれば生活できるし、車の維持費も出せてしまいますけれど、貧乏生活を始めた頃は、会社員時代に比べればずいぶんと少なくなったとはいえ、今よりも多くの生活費を使っていました。これを、貧乏長屋での生活で少しずつ、減らしていったんです。
 引っ越しして間もなくは、家電製品も会社員時代のものがそのまま貧乏長屋に運び込まれておりましたから、消費電力に関しては会社勤めの時とそれほど大差はありませんでした。エアコンがなかったくらいですね。
 会社を辞めるってのは大きいことかもしれませんけれど、勢いがあればできます。それ以外は、いきなり大きく飛び降りたわけじゃなく、貧乏への階段を少しだけ降りただけですね。

 けれど、そういう少しを重ねていくことで、より貧乏に降りていくことができました。最初に大きな効果が現れたのは、食。食べることからでした。これはただ単に、3食を自分で作るだけでも充分に安上がりになりましたから、簡単に減らせます。私は面倒の嫌いな性格ですけれど、それでも自炊を続けられているのは、時間ならばたっぷりあったこともありますけれど、なにより、売られている食材が良かったというのがあります。
 何の変哲もない地元のスーパーへ出かけてまず驚いたのは、豚肉の輝きでした。鮮やかなピンク色の豚肉は、艶もあって、いかにも旨そうでした。聞けば、茨城というのは隠れた豚の産地だそうです。今では肉を買うことも少なくなりましたけれど、この甘味と旨味の詰まった豚肉は、料理を楽しくさせてくれました。石下は田圃や畑も多いですから、野菜だって安くて美味しいのが農家の直売所で売られています。たまに頂き物をしたりしまして、朝、もいだやつをすぐに茹でた玉蜀黍なんていうのは、歯ごたえも甘さも今まで食べたことのないものに感じられました。粒を噛むと一度だけしゃきっと音がしまして、口の中に何とも言えない自然な、けれどとても強烈な甘味が広がりました。食べることの楽しさが少しわかった気がしましたね。野菜というのは、収穫した瞬間から鮮度が落ちるのですね。収穫した瞬間の旨さを閉じこめたやつを食べたりしますと、食べることの楽しさを感じずにはいられません。
 お金をかけなくたって、自分の手間をかけることと、自然の恵みを頂くということによって、充分に美味しい食事ができる。高いお金を払って、決して美味しいとは言えないコンビニの弁当を買って食べるなんてのは、お金と楽しさを捨ててしまうようなものだ。そういう考えが、床の抜けた貧乏長屋の台所で少しずつ構築されていって、他の部分にも広がっていきました。

 そんな中、ひとつの大きな改革は、2000年の1月に起こりました。
 山梨県の、ワインで有名な場所でしたけれど、老夫婦が二人で暮らしていらっしゃいまして、そこへ、知人夫婦と私の三人で行って、引っ越しの手伝いをいたしました。引っ越しと申しましても、道路拡張工事に伴う立ち退きでしたから、引っ越し先というのもすぐ裏手にありまして、小さな物は二階の窓から手渡しをするだけでしたけれど、大きな家具などは地道にほいほいと運ばなければなりません。それなりに体力が必要でしたけれど、当時はまだ20代半ばを折り返したばかりでしたので御飯さえ食べさせてもらえれば力も出ました。
 そんな力の素となるべき朝御飯での光景が、私の貧乏生活にも大きく影響を与えました。

 朝、まあ少しゆっくりとした時間に起きまして、茶の間の炬燵で阪神淡路大震災から5年、というニュースを観ながらお茶を頂いておりました。台所では、母と娘が朝食の準備をしておりまして、時折、楽しそうな声が聞こえてきました。
 古いおこたに大型テレビ、懐かしの黒電話が未だに使われているかと思えば、テレビ通販で頻繁に見かける空気清浄機があったりする、田舎の家にありがちなちぐはぐな光景をおもしろおかしく観察しながら時を過ごしておりますと、いよいよ、朝食が並び始めました。
 さあ、あとは御飯と味噌汁が並べば、という段になりましたとき、お母さんが、ひょいと炬燵布団をめくりまして、そこから、ホーローの鍋を取り出しました。味噌汁が冷めないように炬燵に入ってたのかと思いましたら、これが、鍋で焚かれたお米の御飯だったのです。
 鍋で御飯を炊くことができるというのは、理屈ではわかっておりましたけれど、私に物心が付いた頃にはすでに炊飯器は一般的でしたから、そんなのは過去のことでしかないと思い込んでいたのですね。思い込みという奴は色々と弊害をもたらしましけれど、これはシマッタと感じました。
 米を炊くのに炊飯器なんか要らないという、そんな簡単なことを、貧乏を始めて1年も気づけずにいたのですね。

 それ以来、私も御飯は鍋で炊くようになりまして、試行錯誤の末、六号の小さな土鍋で炊くのが都合がよいし味も良い、というところに行き着きました。これは今でも変わらず、私の食生活の基盤になっています。
 まあとにかく米は土鍋で炊くことになりましたから、そうしますと、炊飯器という物は不要になりました。この、食に生まれた改革は、少しずつ時間を掛け、生活全般に広がっていくこととなります。
 炊飯器というのは、保温機能が付いておりますから、多目に炊いて、次の食事の分を保存しておくことができます。けれど、六合土鍋というのは大きさはドンブリ程度なので、一度に炊けるのは無理をして二合、美味しく炊くならば一合から一合半くらいがせいぜいでして、私の食生活というのは主食の御飯以外には、御飯を美味しく食べるための味噌汁とおかずが少し、という一汁一菜、まあ一汁無菜というのも珍しくないというものですから、一合や二合の御飯なら残さず食べてしまいますので、御飯が余りません。保温なんてことはもちろん、冷や御飯や冷凍御飯を温める必要も、御飯が残らないから必要ありませんし、すでにレトルトや冷凍食品も利用しなくなっていましたから、電子レンジも不要ということになりました。
 土鍋で米を炊くようになってから、台所から、冷蔵庫と裸電球以外の家電製品は消えてしまったんですけれど、これが思いの外に気持ちよかったんですね。

 会社員時代の私もそうでしたけれど、普通、まあ、普通という言葉は好きではないのですけれど、家電製品の普及率からするところの一般的な人々が必要と思い込んでいるものを捨ててしまうと言うのは、これは気分の良いことでして、それを自覚しますと、他の電気仕掛けな道具達もどんどん不要に思えてきました。
 捨てると申しましても、これは自分の生活というところから切り捨てる、という意味でして、実際には、欲しいとおっしゃって下さった方々へ引き取っていただいたということです。おかげで、肉や野菜を貰ったりできましたから、これは助かりましたけれど、まあともかく、引っ越しの時にほいほいと抱え込んだままだった、貧乏生活には必要のない電化製品たちを次々に処分するに至ったのは、土鍋御飯のおかげだったのです。

 今、残っている電気製品と言えば、冷蔵庫、洗濯機、パソコン、ファクシミリ……これは意外に思われるかもしれませんけれど、マスメディアとのやりとりには必要があるだろう、という目論見で残しておきまして、これは結果として利用価値がありましたから助かりました。あとは、貰い物の電動バリカンとアイロン、他にもなにかあるかもしれませんけれど、大きな物は思い浮かびません。
 このうち、アイロンは薬缶にお湯を沸かせば代わりになりますから、そのうちに欲しい人が現れれば差し上げてしまうと思います。

 電気製品をできるだけ持たないということでどのくらい貧乏度が進むのかと言いますと、これは、電気代がかからないと言う以上の効果があります。不要な物は、たとえタダでも持ち込みたくない、ましてお金を出して買ってくるなんてもってのほか、と思うようになりまして、物を買うのは食材と、必要な消耗品くらいになってしまいました。
 これでも随分と生活コストは減りましたけれど、もう一回り貧乏になるためのステップ、私の場合は、さらに徹底的に捨てることでした。

● 捨てること

 電化製品は少なくなりましたけれど、それ以外にもまだ、会社員時代から持ち込んだ過去の散財の記録である物たちは存在しました。これを一斉に処分しようと決意したのは、2001年の梅雨時のことです。
 入居以来、家賃の支払いが一日でも遅れると乗り込んできて催促するし、蕎麦打ったり草餅をくれたり、まあ、口は悪いが気は優しいという感じの愛すべきくそジジイの大家が、2001年初から、どうもちょっと元気がなくなってきました。
 写真家を目指していると言ったら、翌日から「お〜い、写真屋ぁ」なんて、いや俺は写真屋じゃなくて写真家なんだけれどよう、なんて言いたくなるような、落語に出てくるご隠居のノリで呼んでくれた爺さんでしたけれど、なんだか、毎回、同じ事を繰り返し聞いてくるようになったのです。
 99年の秋に一度、行方不明になりまして、どうしたんだろうと思っていたら1ヶ月ほどして戻ってきた。腰を悪くして入院、ということだったらしく、再開の第一声は家賃払え、でしたから、まあ、まだまだ元気だなあとほっとしておりました。実際、元気にゴミを拾ってきては、私を困らせるという相変わらずの日常がすぐに戻ってきました。
 どうも呆け始めているらしい兆候が見られる。こいつは困ったなあ、と思いました。梅雨にはいる頃にはとうとう入院しまして、それまで埼玉にいたという家族がやってきて、第一声は「お家賃がまだと聞いてまして」でしたから、どうにも爺さんらしいなあ、と思いました。
 いよいよ、もう長くないとわかりましたから、これはもう、大変です。どう考えたって、遺族がこんなゴミ屋敷をそのままにしようと考えるはずはありません。そんなゴミ屋敷に暮らしている男なんて、客観的に見たって気味が悪いに違いないでしょう。一応、貧乏長屋は家族が引き続き管理すると仰られていたのですけれど、どうにも胸騒ぎがしまして、いつでも立ち退ける体制を整える必要を感じたのです。

 そうなると、あまりにも荷物の多すぎることに気がつかずにはいられません。物を持ち込むことは無くなっても、すでに持ち込まれている物に関しては、手つかずでした。荷物が多ければ、それだけ移動のコストは増えますし、時間も体力も必要です。なにより、ある程度の広さを必要とするのですから、生きていくのに必要のない物なんて自分自身を束縛するゴミでしかありません。面倒なことが嫌いで放っておいたら、もっと面倒になってしまったというわけです。とにかく、あらゆるゴミを処分しなくてはならなくなりました。

 田舎に暮らしてみますと、田舎の家賃の高さは身に沁みておりまして、廃屋寸前の貧乏長屋だったからこそ安く借りられていたわけですけれど、これが普通のアパートになりますと、以前住んでおりました川口市と大差がないという状況です。みんな家を持っていますから、アパート暮らしなんて一般的ではありません。完全な売り手市場ですから、普通に探したのでは2Kで4万、5万はあたりまえなのです。引っ越し先は、最悪の場合は都内で四畳半一間だろうということで、荷物減らし大作戦を始めることになりました。

 スチールラックとか、そういう大物は簡単に片づきましたけれど、ちりが積もって山になっている部分というのは、なかなか踏ん切りが付きません。捨てるというのは、思った以上に精神的なエネルギーを必要とするのだなあと感じました。それだけの大事業ですから、それまでの私に捨てることができなかったのも大いに頷けたのですけれど、感心している暇もありません。なんとか、捨てるためのエネルギーを爆発させる要因を、危機感を大いに盛り上げる手段を取らなければなりません。で、何に手を着けたかと言いますと、端から見れば大した荷物でもなさそうな、思い出からでした。
 小学校、中学校、高校。思い出の卒業アルバムを、一気に捨ててしまいました。学校を懐かしむ気持ちはありましたけれど、思いだす学校生活のひとこま一齣というのは、よく見ますとアルバムの中には無いのですね。思い出の場所は載っていない。
 屋上にあった部室からゴミを捨てに行くのが面倒なので屋上からワイヤーでおろしていたなんて、卒業アルバムに載っているわけはありませんし、第一、昔を懐かしむ暇があるというのも、今を一生懸命に生きていない証拠に思えまして、これはどかんと捨ててしまった方が良いと考え、勢いで行動に出ました。この件に関しては、今でも、これで良かったと考えております。心の中に、炎の宿りを感じました。

 会社を辞めてしまう経緯からして想像に易しいかと思いますけれど、走り出したら止まりません。四畳半での生活を想定して、荷物は軽トラック一台分を目標に、どんどん、コンピュータ関係の書籍や漫画本ですとか、年賀状の束ですとか、ビデオ、それに多くのプラスチック製品……プラスチックというのは、どうにも貧乏くさい物でして、大抵、プラスチックの収納にはゴミしか入っていないという結果が伴うことの多いという方程式が成り立ちますから、それらを中身ごと一気に処分しました。
 結局、軽トラック一台分とまではいきませんでしたけれど、無理すれば乗るかなあ、くらいには減らしまして、幸いなことに、石下町で新しい住処が見つかったこともあり、やはり行わなければならなくなった引っ越し自体はスムーズに行うことができました。

 大家のジジイは夏の暑い日に逝ってしまいまして、ちょっとリフォームするけれど、家賃はそのままで結構です、なんて言っていた遺族も顔を合わせる度に条件をころころと変えてきましたから、信用もできず、出ていくことにしました。
 ジジイの死ぬ前後、家族に依頼された業者が、爺さんのコレクションを片づけ始めまして、ついには西隣の長屋が、ある日突然に壊されてしまいました。重機が家をなぎ倒す音で目覚めるなんて経験は、面白かったですけれど、あまり気持ちの良いものではありませんでしたね。
 結果的には、よりシンプルな暮らしを得ることができましたから、大家の爺さんには感謝しています。半ば、追い出された形ではありますけれど、哀れなのは私ではなく、いきなり転がり込んできた田舎の土地に舞い上がった方々の方ではないかなあ、なんて思ってます。
 自分で稼いだ金でない限り、決して身に付かないってことは、貧乏生活の中でなんとなく思い続けていることのひとつだったりします。

● テレビのない暮らし

 引っ越し騒動で、ずいぶんと荷物を減らすことができました。新たな住処は、まあ古いことは古いですけれど、床が抜けることもないし、私が越してくる直前まで人の住んでいた物件ですから、奇麗なものでした。家賃も貧乏長屋と同条件で良いことになりまして、まあこれは、知人の親戚が大家という点が大きいのですけれど、貧乏長屋よりは、安心して暮らせるようになりました。
 逆に、急に水道から水が出なくなってあわてたり、骨の折れた障子戸を眺めて物思いに耽ったり、ということも無くなってしまって、ちょっぴり寂しい気持ちもありましたけれど、これは仕方がありません。

 一連の引っ越し騒動の中、私の生活においていちばん変わった点というのが、テレビの無くなったことでしょうか。まあ、テレビというもの自体は、実は貧乏長屋時代初期に処分していたのですけれど、持っていたパソコンにテレビチューナが付いていまして、それで視聴させていただいておりました。貧乏長屋を取り囲むゴミが次々に撤去され、隣の長屋が重機になぎ倒されて、といった物騒な状況に暮らしておりました2001年の夏、知り合いの作曲家から、それまで私が使っていたのより性能の良いパソコンを貰えることになりまして、偶然、今まで使っていたパソコンの引き取り手も見つかりましたから、ゴミの増えることもなく、コンピュータ環境を入れ替えることができました。
 新しく貰った古いパソコンにはテレビを観る機能がありませんでしたので、私の生活の中からは、テレビというメディアが消えて無くなったというわけです。

 今、日本のテレビ普及率は70%を越えていると聞いています。え、100%じゃないの、なんて思われるかもしれませんけれど、このデータは世帯別ではなく、100人中、70人がテレビを持っているということです。ひとつの家庭に2台、3台というのもめずらしくないようですけれど、それほど、なんだか当たり前のように存在するテレビというものを、私も物心付いた頃から見続けて参りました。当然、生活においては、ニュースも娯楽も、テレビが担っていました。
 けれど、貧乏生活を初めてみまして、色々と考えるということを行うようになりますと、どうも、テレビから流れてくる情報に疑問を持つようになりました。
 写真にしても、文章を書くことも、情報を、深く言えば私のメッセージを発信する行為ですから、それを創るためには、やはり他者の発する情報も不可欠な要素です。その情報を得る手段としては、メディアに頼ることになりますけれど、テレビというメディアは、あまり役に立たないなあと思えるようになったのです。

 ここで娯楽番組の話をしても仕方がありませんから、ニュース番組に絞ってお話をしますけれど、テレビを視聴する時間に対して得られる情報は、あまりにも少なく希薄に思えます。
 キャスターが原稿を読み上げながら、事件現場の映像や資料映像が流れる。音声と映像、言語的、非言語的な情報を同時に提供できるわけですから、他のどんなメディアにも負けないだけの情報量を誇ってもおかしくありません。けれど、最近のテレビニュースではこういった利点がちっとも活かされていないと感じます。
 朝の情報番組なんかはニュースの割合が少ないですし、テレビというひとつのメディアでありながら、他のメディアである新聞を読み上げるだけ、なんてコーナーまであります。それに独自のコメントを加えることも少なく、あったとしても当たり障りのない感想だとか、底の浅い解説が加えられるだけです。夕方のニュースではラーメン屋特集。夜のニュースも、キャスターの喋る画面の下に、その日のニュースが電光掲示板形式で流れているという有り様。何のためにキャスターが居るのか理解不能です。
 テレビから流れてくる情報によって、私の心が動かされることは少なくなってしまいました。私にとっては、ゴミでしかない情報が増えすぎたのだと思います。

 テレビ番組というのは利益のために流されているわけですし、NHKですら、視聴率はきちんと重視しています。民放局になると、視聴率が直接、利益に繋がるのですから、なるべく良い数字が出るような番組作りになってしまうのは当然と見て取れます。しっかりとした番組を作れば観てもらえる、ではなく、多くの人が観てくれるような番組はなんだろう、という、視聴者に迎合した番組作りが見え見えです。夕方から気むずかしい報道番組を流すよりは、行列のできるラーメン屋特集の方が見てくれる人は多い。テレビ局が悪いのか、観てる人間が馬鹿なのかはともかく、啓蒙を促すような情報よりも、視聴者にすり寄った消費のための情報が垂れ流されているというのがテレビ番組の現状ではないでしょうか。
 これは、去年の暮れにとある民放局の方とお話をする機会があった際、局の方も頷いてらっしゃいましたから、確かだと思います。
 唯一の頼みの綱となりそうなNHKのニュースも、淡々と読み上げるだけで、他でニュースを読む機会があれば、不要に感じます。事件や災害の速報だけならラジオで十分。テレビという巨大な箱を生活の場に鎮座させておく必要性は、感じられません。
 NHKですらまじめな顔で「アザラシのタマちゃんが……」なんてニュースを放映するというのですから、もはや私にとってはテレビを視聴する時間なんて無駄です。

 テレビの送信アンテナ、東京なら東京タワーになりますけれど、これはもう、巨大な広告塔になってしまいました。テレビ局も、スポンサー収入だけでは足りないのか、自らイベントを開き、その期間中はあらゆる番組がイベントの広告という色合いです。視聴者の時間を無駄に消費するだけでは飽きたらず、直接、お金を消費させることにシフトしてしまったメディアにはメッセージなどありません。
 貧乏生活にとって、消費は禁忌です。
 新たな住処での貧乏生活は、過去の消費により溜め込んだゴミを捨て、消費ばかりを促すテレビを捨て、より、消費から遠ざかった位置で始まった、ということになりますでしょうか。

● 捨てるから始末へ

 引っ越しをして1年半くらい経ちました。一度は少なくなった荷物も、実は、少し増えました。  けれど、決して無駄な消費をしたわけでもなく、ゴミを抱え込んだ訳でもありません。材料が増えてしまったんです。

 貧乏生活も少し落ち着きまして、まあ、まだまだ降りていくことはできるし、もちろん降りていくことになりますけれど、本の執筆やらなんやらでわさわさとしておりましたので、月々8万円の暮らしというところでちょっと腰を下ろしています。
 そうなると、今度は捨てるということが無くなるのです。
 実際、引っ越しをした際に少しゴミが出ましたけれど、2002年に入ってから、私は町指定のゴミ袋でゴミ収集所にゴミを出したことが一度もありません。
 生ゴミも、可燃ゴミも、自分の家で処理できる程度にしか出ないのです。
 捨てることから、始末を付けることへ移行できた、ということになるでしょうか。

 始末というのは、京都のそれが有名ですね。物を使い切るという倹約の心とでも申しましょうか、捨てずに、全てを家庭内で消化しきってしまうというような感覚です。
 へっついとか竈といった、火を焚いて生活をしていた時代と違いまして、可燃物を全てエネルギーとして使い切ることは、現代の生活では難しいですけれど、それでも、できるだけゴミを出さない心がけというのは充分に可能だとおもいます。

 食というのは一番にコストを減らせる部分だと思いますけれど、これが身に付きますと、生ゴミはほとんどでなくなります。
 大根や人参の葉っぱは美味しいです。最近は葉っぱ付きで売られていることも少ないですけれど、ヘタを水に浸しておけば、夏場は厳しいですけれど、涼しいときなら少しずつ芽が出てきますから、これを刻んで味噌汁を楽しむことができます。葱も余すところ無く食べられます。捨てるのは、枯れて茶色くなった部分だけです。これは、煮ても焼いても不味くて食べられませんでした。

 蛇足ですけれど、昔の文献などで、飢餓の際に土壁を壊して食べたなんて話が出てきます。これはたぶん、土を食べていたのではなく、強度を出すために塗り込んである藁を煮て食べたのだと思います。
 さすがに私も藁を食べたことはありませんけれど、おそらく、葱の枯れた奴と大差はないでしょうね。そこまでしなければならないほど、現代の貧乏人は食に困らないのですから、これは、ありがたいことです。
 土手に行けば、誰にも見向きもされない野草が生えています。菜の花、からし菜、スベリヒユ、タンポポ、ノビルなどなど。えぐ味があったりしますけれど、枯れた葱やキャベツの一番外側の葉っぱよりは美味しいです。

 魚は、実を食べた後の骨は出汁が取れますし、出汁を取った後にもう一度焼き、これを干してからからにしたのをすり鉢ですれば、これもまた自家製出汁の素になります。頭は、食べられます。
 土鍋でお米を炊いて、鍋に米粒の付いたままお湯を沸かして味噌汁を作れば、こびりついた米粒だって捨てずに済みます。
 ニンニクのように、一つのネットにたくさん入っているようなものは、使い切れない分は醤油に漬けてしまえば1年だって2年だって持ちますし、肉は塩漬けにした物を干し肉にすれば、これも冷蔵庫で1年くらいは平気で保存できます。これを煮て出汁を取るとこれまた旨いです。
 出汁を取ったあとの昆布は、水気を切って冷凍しておきます。これがある程度の量になったら、刻んで佃煮にしてしまえば、1ヶ月や2ヶ月は平気です。鰹節も、出汁を取った後にふりかけにしてしまえば持ちます。煮干しは、そのまま一緒に食べてしまえばOKです。

 生ゴミの量は、外食とコンビニで食生活を送る人並みに出ません。
 葉っぱのでなくなった人参のヘタとか、馬鈴薯の芽とか、その程度の物は庭に穴を掘って捨てますと、肥料になりますから、これは完全に無駄とは言えません。
 現在、私が住んでいるところはちょっとした庭がありますから、そこでちょっとした家庭菜園もやっています。食べ物として買ったものの絞り滓みたいな残りが、やがて庭で育つ作物のために活きる。消えるけれど消えない、という感覚が、なんとなく気持ちよく思えています。

 可燃ゴミは、庭で燃やしてしまいます。灰だって、肥料になります。現在、勝手にゴミを燃やしてしまうと怒られてしまう世の中になっておりますけれど、炭焼きとか、趣味の焚き火ならば許されています。
 パソコンで原稿を書く、なんてことをやっていますと、構成や誤字脱字の確認はどうしてもプリントアウトした紙でやらないとしっくりこないのですけれど、要らなくなったプリント物は、ハサミで切って束にしまして、一辺を糊付けしますと、メモ用紙になります。要らなくなったメモは、ゴミになりますけれど、七輪に炭を熾す際の焚き付けにも使えます。
 結局、趣味の範囲で燃やしきれるくらいしかゴミは出ませんから、ゴミ袋が不要な生活を送っています。

 煙草も、燃やす必要があるのは包装紙くらいです。私は煙草がないと生きていけないという中毒者ですけれど、煙草は量切りの、フィルターの付いていないやつをハサミで切って煙管で吸いますから、吸い殻は、灰しか残りません。

 たまに貰い物で缶ジュースや缶ビール、ペットボトルなどを頂きますけれど、これは資源ゴミ回収所に持って行くだけですから、ゴミ袋は必要ありません。

 とまあ、捨てることに一段落の着いた新たな古い住まいでの生活は、始末という、排出するゴミの少ないものへ変わりました。先ほど、材料が増えたと申しましたけれど、これも、燃やせる物がほとんどです。邪魔になったら、火鉢で使う炭にしてしまったり、庭で焚き火を楽しめば消えてしまいます。
 少なくとも、それを維持するのに消費を伴うようなもの、捨てるのにお金の掛かる物というのは増えていません。

 そう、ゴミを捨てるにもお金の掛かる時代ですから、できるだけゴミを出さない方が、財布に優しいです。すると、必然的に、ゴミになる物は買わなくなります。
 お肉の発砲トレーなんかはスーパーで回収していますから、これはどんどん買って食べたいところですけれど、これは、財布が許してくれませんで、なかなか買えずにおります。

● 貧乏視点から見た今

 まあ、こうして、徐々に貧乏へと降りていって、なるべくお金を使わず、なるべくお金を稼がずに暮らせるようになったわけですけれど、その中で、世の中の人々と貧乏人の違いとして一番に大きいのはなんだろうと考えますと、消費についての考えかなあ、と思います。

 時は金なり、という言葉がありますけれど、私も時間はお金と同等か、それ以上の価値があると考えています。貧乏生活に至る理由だって時間を自由に使いたいというものでしたから、お金と時間を天秤に掛けるということは経てきたのですけれど、よりいっそう、この関係を強く感じるようになりましたのは、アルバイトを始めてからのことでした。

 のんびりと、徐々に貧乏に降りていくという生活は、今に比べれば多くの生活費を必要としていましたから、1999年1月に始まった完全無職生活も、その年の9月には資金も僅かになりまして、いよいよ、アルバイトをすることになってしまいました。確か、このころは月に12万円くらいは使っていたように記憶しています。
 アルバイトによって生活費を稼ぐようになりましてからは、お金と時間の関係をより強く心に秘めるようになりましたから、生活費もより少なくなってきました。
 生活費の推移というのは資料としては残っていないのですけれど、確か、アルバイトをするようになってからは、10万円以内で暮らせるようになっていたはずです。これは、当時から私の中に10万円は必ず貯金しておく、という決まりがありまして、なぜ10万円かと言いますと、とりあえずそれだけあれば当時でも1ヶ月は暮らせましたから、いざとなればバイト先の偉い人を殴ってしまっても、即、路頭に迷うことはない、という保険だったわけです。
 ひと月もあれば、そのうちに次の働き先くらい見つけられるだろうという、これもまた相変わらずカタカナのテキトーな性格が見て取れる話です。

 まあそれはともかく、アルバイトというものを通じて、時間をお金に換金する、という考え方を強く持つようになったわけです。
 アルバイトの多くは、一時間働けば幾ら、という賃金体系ですから、時間をお金に換金するようなものです。私は、これは時間の切り売りだと考えています。

 時間の切り売り、という点に関しては、実は、アルバイトだろうと会社員だろうと、大差はないと考えています。
 会社員の基本給は、無断欠勤をすれば日割りで減額されますし、残業手当も時間給です。各種手当てやボーナスで手厚く保護されていますけれど、結局、基本給を労働時間で割った物が時給となっています。
 乱暴な考え方に思えるかもしれませんけれど、なにかしらの組織に属して働くと言うことは、個々の労働力をいちいち個別に計ることなどなく、一律、時間という単位で扱われるに過ぎません。
 会社勤めだろうとアルバイトであろうと、能力に応じて時給に差が出ることもありますけれど、それこそ誤差の範囲です。

 なにより、会社員でもアルバイトでも、組織に属すという時点で、労働に対する中間搾取が発生します。貴重な時間を切り売りすることで効率悪くお金に換金し、そんなお金をたくさん使う生活を営むということは、自分自身を消費してしまうことに他ならない。そんな考えを持ちますと、生活に必要のない物を買うなんて行為は馬鹿らしくてできなくなりました。

 私にとって、アルバイトで多くのお金を稼ごうとする行為は、自分自身の消費になってしまいます。12万円を稼ぐよりは、10万円、それよりは8万円、労働時間を減らせば、無駄な時間も少なくなります。月々8万円での暮らしというのは、できるだけ、自分を消費させたくないという思いがつくりあげたと言えます。
 実際には、月に8万円を使い切ってしまうのではなく、年に一度の自動車保険の為の蓄えとして僅かな貯金もつくりますから、年間100万円くらい、という表現の方が良いのかもしれませんけれど、このくらいあれば、十分、楽に暮らせるというのが日本の豊かさを示していると思います。

 不況だ不景気だと言われて、国の借金も増え続けていて、リストラ、倒産、賃金カット、ベアゼロ、そんな言葉におびえた生活をされている方々も非常に多くいらっしゃるのが現状ですけれど、日本は、まだまだ、十分に豊かな国だと思います。私からすれば、命を落とす危険のない不安におびえているだけに見えてしまいます。

 ゆっくりながらもどんどんと貧乏へ降りていきますと、世の中というのが、見上げる位置にあります。それをじっくり眺めてみますと、消費をすることでしか個性を見いだせない、物によってしか自己を表現できない人たちが、そこにはたくさん見えてきます。私も、かつてはそこにいた、という場所が、今までとは違う視点で見えてくる……まあ、貧乏視点とでも申せばよいでしょうか。貧乏から見た世の中というのは、日本の豊かさを無駄に費やそうとする、とっても貧乏くさい人々の集まりに見えるのです。

 貧乏と貧乏くさい。一見、同じように思われるかもしれませんけれど、両者の違いは大きいと感じています。まあ、私が線引きをした解釈でお話ししているのですから、いくらでも分け隔てできるのですけれど、とにかく違います。今の世の中に多く存在する貧乏くさい人々、これは、貧乏とは似て非なる、つまり似非貧乏なのです。この両者の線引きは、やはり消費というものでなされているように思えます。

 まあ、貧乏くさい人の例として、最も目にする機会の多いのはブランド物の鞄や財布を持ち歩く人でしょうか。
 何十万もする鞄を持ってバス停に列ばれたりしますと、私は見ていて恥ずかしくなってきます。せめてハイヤーを呼べるようになってから持って欲しいのです。ファーストフードの支払いで、あ、6円あります、なんて言いながらブランド物の財布から一生懸命に小銭を探すのは、店員を笑わせようと必死になっているからなのでしょうか。そういう人々の持つブランド商品なんて、残念ですけれど、偽物にしか見えません。お願いだから、携帯電話のストラップをじゃらじゃらとぶら下げるのはご勘弁願えたらなあ、と、日々、そんなことを思いながらアルバイトをしております。

 本人はそんな意識など持っていないのかもしれませんけれど、これは、物によって自分のレベル以上のステータスを得ようとしているに過ぎません。車、香水、腕時計、ネックレス。いったい、私の月収の何倍を注ぎ込んで、そんな哀れな姿になってしまうのだろうかと考えますと、やっぱり日本は十分に豊かな国なんだなあ、という結論に達します。
 何にも考えなくても死なずに済むのですから、日本は豊かな国です。ブランド物を買えるんだから、その物を持つに相応しい人間なんだ、とでも思っているのでしょうけれど、海外旅行の際にはぜひとも、十分に気を付けて欲しいと願うばかりです。
 分不相応に物を所有することで自分を満足させ、時には借金をしてでも手に入れる。着飾ることで自分を出そうとする。それが個性の表現であって、ステータスなのだと思い込んでしまう。今は、そういう貧乏くさい人々が、とても多くいらっしゃるんですね。

 ブランド物の鞄やらスーツやらを身につけるべくして身につけている人というのは、立ち方、座り方、歩き方、箸の持ち方、動作のひとつひとつが違います。作法が染みついていらっしゃる。たとえ、ジーパンにTシャツ姿で居たとしても、育ちの良さはばれてしまうんですね。こういうことをわかりもせず、知ろうともせずに、ただただ持ち物だけを真似ようとしたって、お里が知れるのは時間の問題です。お金を使う努力では、上品さは身に付きません。
 まあ、きっとブランド物にあこがれて一点豪華主義に陥るような人は、お金持ちと街ですれ違ったとしても、自分の価値を物によって得ようとする人は他人だって同じ物差しで測ろうとするようですから、自分の知っている範囲での高い物を身につけていなければ気が付かないでしょうね。
 まあ、きっと私にもわからないでしょうけれど、だから、使える物は欲しくても、単に高い物は欲しくありませんし、タダでも要りません。
 そんな物にお金を使うことは、そのお金を稼ぐために使ってしまった時間を無駄に消費することになります。それは、自分自身を消費してしまうこととなんら変わらないのです。

 流行っているから、とか、格好良いから、とか、周りがみんな持っているから、なんていう理由での消費は、子供の理屈そのままです。私が子供の頃、こんな理由で物をねだれば、まず間違いなく殴られました。育ちが悪いですから、鉄拳制裁でした。
 それはともかく、大人になって、自分の意のままに使えるお金が多くなって、心は子供のままに消費に明け暮れているというのはどうかと思います。「これ買ったんだよ」「お、新しく宣伝してる奴だすげーな」「オレも欲しいんだよなあ」こういう会話が、大人と呼ばれる年代の間でも繰り広げられているというのは、滑稽ではありませんか。

 人は、年齢に応じて成長していく生き物のはずです。子供の頃に夢中になったおもちゃを抱えたまま歳を重ねたのでは、いい大人の癖にみっともないと言われてしまうはずでした。
 私は、大人になるということは、おもちゃを捨てて、自分の歩むべき道に向かって歩き出すことだと思っています。それこそが、人生という名の遊びです。私にとっては、写真家になるということが、人生を賭けた楽しみですし、こんな話を皆さんに聞いていただくのも、皆様にとっては迷惑千万な話でしょうけれど、私にとっては遊びの一環です。
 けれど、今の大人というのは、成長するに従って古いおもちゃは手放しても、それに代わる新しいおもちゃを次々と手にしてしまう。無くても生きていけるようなゴミを、次々に抱え込んで、やがて、そんなゴミで囲まれた生活を守るために、自分の家を欲しがる。
 自分の人生を掛けた消費の証である役立たずのゴミを借金で買った家に並べて、満足を得ようとする。
 こんな、自分を費やして消してしまうだけの人生なんて、寂しすぎやしないでしょうか。

 無個性の時代、なんて呼ばれていて、個性重視の教育なんてことが叫ばれておりますけれど、高度経済成長で芽生え、バブル経済を産み出してしまった消費という病から未だに脱せずに、今では百円ショップなんてもので消費欲を満たそうとする時代になってしまいました。自分を消費する術が、どんどん、安っぽくなっています。
 物で自分を見いだそうとする人々は、どんどん、安っぽくなっていくのです。
 個性は、物を買ってくれば得られる物ではありません。携帯電話の着信メロディーの選曲で得られる物でもありません。
 個性というのは、自分で創り出すものによって得られるのです。創り出したものこそが、自分の存在意義なのです。
 ここで言う「もの」は、形のあるものとは限りません。芝居で人の心を動かせたなら、歌で感動させられたなら、説教で人を改心させられたなら、それは、あなたの個性、あなたの発するメッセージが、他人に届いたということになります。これも、立派に創り出したものです。
 人間は考える葦である、なんて言葉がありますけれど、考えるというのは、何かを創り出すためにあるはずなのです。少なくとも、何かを創り出せない、創り出そうとしない人というのは、人間であることを放棄しているように思えてなりません。
 お金で得た物による個性なんて、何も創り出せない個性なんて、偽りでしかありません。人間以下です。

 とまあ、自分勝手な解釈かもしれませんけれど、アルバイトをきっかけに色々と考え、見えてきたものというのは、消費の愚かさでした。これは、私の貧乏をより加速させてくれるエネルギーになってくれていまして、今後も掘り下げてみると、自分の創るべきものも見えてくるかなあ、なんて思っています。

● 貧乏人とメディア

 ここらへんで一応、「情報処理と現代社会」という授業のひとこまをお借りしているわけですから、それなりに情報処理っぽい部分にも触れておこうかと思います。
 とは言っても、後日、こちらも専門の方がいらっしゃって色々とお話をしてくださるようですから、私が出しゃばっても面白くありません。
 でも、貧乏人からみたメディアとしての情報という点だったら、これはまあなかなか聞ける話でもないかなあと思います。

 先ほどもお話ししたように、僕の家にはテレビがありませんけれど、ニュースくらいは知らないと困りますので、主なニュースはインターネットで仕入れることにしています。

 インターネットにしてみても、未だ未成熟なメディアですし、既存のメディアが情報発信をしているのが現状ですから、まあ、しょうもない情報だって行き交っていることに変わりはありません。けれど、自分でニュースを選択して読むことができますから、テレビよりはマシだと考えています。
 最近は、新聞社のサイトで見出しを流し読みして、ちょっと興味のある記事だけをつまんで読むだけですけれど、それでも、短時間でテレビ1時間分くらいの情報は得られているように感じます。
 貧乏の癖にパソコンを持っているわけですけれど、インターネットというのは、貧乏人がメッセージを発する場としてはたいへん安上がりですし、使い方によっては最高のメディアだと考えています。

 で、僕とインターネットとの関わりですけれど、今日、お話ししてきたような貧乏へ降りていく課程を、全国に向けて発信している、という次第です。
 まあ、どんなことをしているかといいますと、「耐乏PressJapan.」という名前のウェブサイトを作っていまして、インターネット上で公開しております。
 貧乏生活を始めて半年くらいたった頃に、全日本貧乏協議会という組織を発足させまして、その会の会報誌という名目で、耐乏Pressをスタートさせました。
 このきっかけは、ふとインターネットで「貧乏」をキーワードに検索をしてみましたときに、今はもう無くなってしまったのですけれど、サラリーマン貧乏川柳、といったようなものを載せているサイトが出てまいりまして、それを読んだときに、ああ、貧乏ってのは笑いになるのだなあ、と感じたことでした。
 当時はまだ貧乏生活も始まったばかりでしたし、もし辛いことがあったとしても、ネット上で公開して、誰かが笑ってくれたら、それはそれで楽しいことにできると思ったんですね。個人の名前でやるよりも、なにかしらの団体名で、いかにもまじめにやった方が、かえって気兼ねなく笑って貰えるとおもいましたから、全日本貧乏協議会という一見立派そうだけどよく考えると情けないという名前をつけました。
 サイトのコンセプトも、協議会の発行する月刊ウェブ会報誌としてしっかりと作ることにしまして、これは、笑って貰うためだけではなく、写真家として立脚するにはカメラマンもできなければなんてことを当時は思っておりましたので、その練習として雑誌に載ってるような写真を撮れるように、という目的もありました。
 まあ、こんな感じで99年の8月には創刊号を発刊することになります。

 耐乏PressJapan.の内容は、貧乏を明るく楽しく生きるための特集、こまごまとした連載記事、それに読者の投稿という3部構成になっていまして、これは今でも変わらずに、変わったことと言えば、毎月出すのが大変になって不定期発刊になってしまっていることですね。これは反省しなければならないなあと、思うだけ思っております。
 創刊号は内容も少なかったですし、投稿も知り合いから2本だけという、誰も観てない状態のサイトだったのですけれど、ロボット型サーチエンジンで検索結果に出るようになるとすぐ、パソコン雑誌からサイト紹介させてほしいという依頼が飛び込んできました。運が良かったというか、当時、貧乏で検索をしてもそれほど件数が出てこなかったのもあると思うのですけれど、その後も、半年に1回か2回は雑誌で紹介されるようになりまして、徐々に読者の方も増えてまいりました。そうなると、こっちとしてもやりがいがありますから、毎月、なんとかかんとか特集を企画して発行という生活を続けていくことができました。

 今日お話しした内容も、多くは耐乏Pressの特集として書いてありまして、貧乏と貧乏くさいの違いとか、冷蔵庫、洗濯機、テレビについてだとか、コンビニ不要論とか納豆についてとか、貧乏人は米を喰え、なんてものを特集にしながら続けていましたところ、2001年の8月に、いきなり4件ほど、パソコン雑誌以外のメディアから、取材の依頼が舞い込んできました。丁度このころが、世の中も貧乏に対していよいよ関心を持つようになった時期なのかもしれません。

 サイトではなく、自分自身が取材対象として雑誌にちょこっと載って、まあ取材の謝礼なんかも貰えましたからちょっと一杯、良い酒なんかも呑むことができまして、そんなこんなで2001年の秋、とある出版社から耐乏Pressの内容を1冊の本にまとめて出版しないかというお誘いがかかりました。
 最初は、何本かの特集記事と、別枠で作っております貧乏大辞典というのをちょこっと手直しして出そうという話でした。これは簡単だし面白いと思いまして、まあすぐにやりますと返事をしました。
 編集作業も順調に進んで、2002年の2月には9割方完成いたしました。4月には発売できそうという所で出版社が倒産してしまいまして、編集者の再就職と共になんとか違う出版社で出せることにはなったのですけれど、貧乏大辞典の部分を削除されてしまったので新しい原稿を書かなければならなくなりましたし、ついでに、もともとあった原稿も、大幅に改良することになってしまいました。これが、WAVE出版から発売された「貧乏神髄」として無事に発売されたのは、2002年9月、配本は13日の金曜日、初版発行日は27日の仏滅という、なんとも貧乏人らしい発売となりました。

 一個人の始めたウェブサイトが一冊の本になるというのは、個人のインターネット利用における成功例として挙げられるかなあ、と思います。伝えたいと思うメッセージがあれば、媒体は問わずに発信する。そのメッセージが伝われば、何かしらのアクションが起きる。なにかを伝える手段として、インターネットというのは、それなりに有効だとおもいますし、パソコンだって、高くて高性能な物が必要というわけではありません。僕が今、インターネットを利用するのに使っているのは5年前のパソコンで、マッキントッシュですけれど、最新のOSは動作対象外の物です。遅いですけれど、タダで貰えるようなパソコンでも、メッセージを発信できるのですから、貧乏人にとっても十分な武器となります。

 それに、貧乏神髄の原稿やりとりは、すべて電子メールで行うことができました。最初の打ち合わせは、僕が東京へ出ていって編集者と直接お話をしましたけれど、それ以来、一度もお会いすることなく1冊の本が出せてしまいました。
 当時はダイヤルアップで繋いでいましたから、通話料も転送時間もかかるので写真画像は宅配便を使いましたけれど、3月からはやっと石下町でもADSLを使えるようになりました。もし、また本を書く機会に恵まれた際には、すべてをインターネット上でのやりとりで済ませられるはずです。

 ところで、僕は携帯電話は持っていませんし、持つ予定もありませんけれど、今の奴は、インターネット上にある携帯電話向けサイトを観ることができます。パソコン以上に普及しているであろう携帯電話なら、パケット料金の問題さえなんとかなれば、閲覧者も爆発的に増えると思いますし、もし、なにか発信したいとお考えの方がいらっしゃったら、携帯電話でできる活動もあるはずです。
 ただ単に、みんなが持っているから自分も持っていないと不便だと錯覚して高いお金を払い続けるよりは、よほど真っ当な使い方に思えます。

● もうひとつのメディア

 僕にとってもうひとつ、これはおそらく僕にとって世の中というものを探るのに最も役立ったメディアとして、喫茶店があります。喫茶店がメディアというのは変かもしれませんが、メッセージの媒体という点で、この言い方は決して間違っていないと考えています。

 最初にお話しした、月1万5千円のコーヒー代、これは1日500円で毎日欠かさず通った場合ですけれど、貧乏人が家賃の半分、食費の数倍を使う喫茶店というのは、僕が石下町で物件を見つけられるに至ったお店でもあります。
 この店、今流行のコーヒーショップとは違い、居合わせた客同士が会話を楽しめるという昔ながらの喫茶店文化の残っている所でして、ここで様々な年代、職業の方々とお話をできたことは、僕の生き方にも大きく影響しているように思えますから、出費以上のものを得られていると感じています。

 僕の基本姿勢は、人の話を聞くときにはいったん、相手の言うことを腑に落とす、ということでして、これは、喫茶店で話をするうちに、なんとなく気を付けるようになったことでした。

 最近、どうも30歳を過ぎると人の話を聞けなくなってしまう大人が増えているように思えてなりません。自分なりの考えを持つことは素晴らしいことですけれど、それになんら裏付けが無い。こういうのは、思い込みでしかありません。間違ったことを世界の真理のごとく思い込んでしまう人というのは、それに異を唱える人の話は反射神経で否定してしまうんですね。
 かといって、じゃあどうなんだと話を聞いてみますと、枝葉末節なところでうろうろするだけで、なんら本質を持っていません。人の話を聞けないようだと、新しい考えを芽生えさせることもできないと思います。人のことを否定することでしか自分の存在を保てない、そんな大人ばかりになってしまったら、会話なんて物は不要だし、インターネットとか携帯電話なんていう情報媒体が速報性や多様化をもたらしたとしても、そこに載せるものが無くなってしまいます。

 情報という漢字を解釈すれば、これは「ありのままを知らせる」という意味です。これの処遇を明らかにするのが処理とすれば、情報処理というのは、なにかを創るための行為であると僕は考えています。目的を持たず、玉石混淆のデータベースを作り上げたとしても、それを人間が処理するための情報として取り出す際に手間が掛かってしまう。直感的に使えないデータベースなんてゴミみたいな物ですし、残念ながら、インターネット、そしてその窓口となるパソコンの現状もそれに近い物があります。

 「本日は晴天也」とワープロソフトで書いた物を保存したとします。このファイルを、バージョンアップしたワープロソフトで読み込ませたらファイル容量が2倍になってしまったとしたら、馬鹿らしくて使う気になれません。けれど、今のパソコンの現状は、そんなもののように思えます。記された情報になんの変化もないのに、本質とかけ離れた部分で容量だけが増えていって、それを処理するためのコンピュータも次々に変えていかなければならない。こういった、本質とは関係のない部分が肥大化していく現象は、他のあらゆる分野においても起こっているように思えます。

 喫茶店文化が衰退して、ただ単にコーヒーを売るだけの店が増えています。見た目はおしゃれですけれど、その中で行き交う情報量は、かつての喫茶店よりも少ないと感じます。大人達に会話を不成立にさせてしまう思い込みがはびこっていて、子供達は会話による意志疎通の楽しみを知らずに育っていく。そんな世の中で、自分の脳の中に独自の情報処理回路を身につけるというのは難しいのかもしれません。
 リアルで会話のできない人間に、バーチャルを使いこなすことはできないと思っています。リアルだけでは足りないからバーチャルを駆使して補うというのなら、バーチャルリアリティというものだって大いに期待を寄せたいところですけれど、リアルでの情報伝達ができない人は、バーチャルの世界でも、垂れ流しの情報を浴び続けるだけなのでしょう。

 耐乏PressJapan.というのも、バーチャルなものです。そこには、どこの誰なのかもわからない人たちからメールや投稿が寄せられますけれど、意志の疎通や新たな共通認識を産み出す会話として成り立つようなものは、少ないというのが現状です。

 ここはひとつ、若い皆様に頑張っていただきたいと願うばかりでして、まあ、本日は長々ととりとめのないお話をさせていただきましたけれど、まあぜひとも、今日の話もいったんは腑に落としてみて下さい。それでもし、価値がないと思うならば、忘れてしまえば良いですし、なにか価値を見いだせたなら、それを今後の生き方に活かしていただければと思います。
 もし、腑に落とした上で反論したいことがあれば、酒の一杯もご馳走して下さったならばいくらでもお付き合いいたしますので、その際にはご連絡をお願いいたします。

 本日はどうもありがとうございました。
---
耐乏Press 貧乏人の歯軋り 学習院大学講演原稿 発行:全日本貧乏協議会(taku3@jh.net) 発行部数:9185 冊
COPYRIGHT (c) 2003 Takuya Kawakami. ALL RIGHTS RESERVED.