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MAY.
2002
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 2002年5月号目次

特集
一億総貧乏時代の幕開け

〜全日本貧乏協議会の考える貧乏とは 平成一四年度版〜 中編


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  編集後記/次号のお知らせ


 特集

一億総貧乏時代の幕開け
全日本貧乏協議会の考える貧乏とは 平成14年度版 中編 ---
一億総貧乏時代における貧乏とは。前後編の予定でしたが、なぜか三部構成になってしまいました。今月は中編として、一億総貧乏時代の考察をお楽しみください。

※まだ前編をお読みでない方は、4月号からどうぞ
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考えることを知らない時代

 カタログ文化からマニュアル文化、そしてバブル崩壊。人々は考えることを忘れ去り、一億総貧乏時代の幕は開けました。

 考える。簡単な言葉ですけれど、本当に意味をわかっている人は、果たして何人くらいなのか。そして筆者は考えるということがわかっているのか−−。普段、何気なく簡単に使われる単語でありながら、実は大変に重要であり、深い単語なのです。
 考えると言えば、人間は考える葦だという話が有名です。これは、台風シーズンになると頻繁に耳にする「ヘクトパスカル」でおなじみ、十七世紀の哲学者兼数学者兼物理学者であるパスカルの言葉で、彼が死んだ後に発刊された「パンセ」に収められています。
 パンセというのは、フランス語で思想という意味の言葉。ここでもやはり、七十年代を最後に日本から思想が消えてしまったことと結びつくのです。

 考えるという行為には、まず情報が必要になります。情報と情報を組み合わせることで次の事象を予測したり、過去の出来事を解析する。ただし、ただ闇雲に組み合わせたってなにも導き出すことは出来ません。どんな情報が必要か、どのような組み合わせで用いるのか、そもそも、なぜそれを導きだそうとしているのか。考えるためのベクトルこそが、思想なのです。
 八十年代のカタログ文化は、情報のみを肥大化させた文化でした。その情報によって刺激されたのは、動物としての本能に過ぎません。これは、バブル経済の中で生まれたマニュアル文化にあっても同様のことが言えます。思想の消えた国で、考えるという行為は次第に弱まってしまったのです。
 考えるための形翼を失った日本が貧乏に転がり落ちていく。IT革命などという言葉も過去になりつつありますけれど、この言葉ひとつを取っても、情報のみが肥大した国のなれの果てを見ているようです。

 人間は考える葦。宇宙は無限の空間であるという情報とキリスト教というベクトルによって十七世紀のパスカルが導き出した考えは、逆から言えば、人間から考えるという行為を奪い去ったとき、そこに残るのは葦のような弱い存在でしかないということではないでしょうか。

世代の分断

 『新機能を搭載した新機種携帯電話。自分の好きな着信メロディーや待ち受け画面を探し出し、人に聞かせたり見せたりというのが、いま流のコミュニケーションとして成り立っているようです。携帯電話の番号やメールアドレスを交換することが、初めましての挨拶として浸透している事もあり、携帯電話のアドレス帳はあまり良く知らない人の名前で溢れています』
 以上の話は、ある方面では正解であり、ある方面ではまったくの不正解です。
こんな例が当てはまるのは、おそらく限られた世代の人々だけでしょう。

一億総貧乏時代  一億総貧乏時代においては、幅広い世代が共通のベクトルを持って行動する機会などは失われていきます。ひとつの歌謡曲をあらゆる世代で共有できたのも昔のこと−−。一字一句まで覚えているわけではありませんけれど、数年前、まだ全日本貧乏協議会本部にテレビ放送を受信するための設備のあった頃、ニュース番組のインタビューで阿久悠氏がそんなニュアンスで嘆いていました。

 カタログ文化、バブル経済、マニュアル文化という流れの中で、日本から考えるということや、受け継ぐということが失われてしまいました。上の世代から下の世代へ。親から子へ、やがて孫へ。先輩から後輩へ。世代を越えた交流というものが、薄れています。核家族化、少子化、近所づきあいの減少。都会には喫茶店ではなくコーヒーショップが乱立し、居酒屋はチェーン店になってしまいました。
 そんな世代の分断を招く原因は、今の四十代にあるのです。

 現在の六十代が五十代に伝えた物が、四十代で止まってしまいました。そう、現在の四十代というのは、八十年代に青春を謳歌した年代です。彼ら、彼女らがなんとなくクリスタルな生活を楽しみ、五十代から受けたものは消費するだけで、今の三十代へ伝えることをしなかったのです。四十代からなにも教えられず、バブル経済によって消費の快楽を知ってしまった三十代は、壊れてしまいました。豪華客船での入社式なんてものを経験した人間が、不景気になったからと言って消費をやめられるはずもありません。思想の無くなった日本で青春を過ごし、働き盛りを迎えた四十代、三十代。それを管理する年齢に達した、挫折した五十代、六十代。そんな流れの中、大人が子供を食い物にするという恐ろしい時代が訪れたのです。

 昔から、子供をターゲットにした商品はありました。駄菓子だってそうだし、仮面ライダースナックを代表とするシール付き菓子、ゲームウォッチ、週刊漫画雑誌などがそうです。小遣いやお年玉を工面しておもちゃを買うのは、いつの時代も変わりません。ただ、最近はより露骨に、より高価に、子供から金を搾り取るようなものが多くなりました。
 テレビゲームなどは、本体を買い、ソフトを買えばしばらくは遊べますけれど、昔よりも早いサイクルで新しいゲームが出るのですから、子供の小遣いで追いきれるものではありません。高校生にもなれば、携帯電話を持っているのは当たり前。ゲームと違い、一度手に入れれば、毎月、アルバイト代の多くが通話料として搾り取られていくのです。もはや、エレキギターが欲しくて必至にアルバイトをし、やっと手に入れたギターを一日中弾いて、俺はこのギターで稼いでやるんだなどと野望に燃える少年などは希少価値があるのかもしれません。若人が携帯電話代を携帯電話で稼ごうとすると、少年少女はあらぬ方向へ走ってしまうので、それでは困ってしまいます。

 とにもかくにも、世代と世代の交流は失われ、子供に媚びた音楽が百万枚売れ、迷惑メールは子供達からも小遣いを吸い続けるのです。
 企業は、目先の利益のみを追求し、利益のためなら子供であろうと消費してしまいます。考えることを知らない時代、上の世代は下の世代に教えることを知らず、ただ搾取し続けるだけの存在に成り下がってしまったのです。

平均化の波

一億総貧乏時代  【甘い】 たいていは「あまい」と読みますけれど、うまいと読むこともできます。甘飯と書いて、「うまいい」と読みますが、これは、美味しいご飯のことです。
 露地物のキュウリやトマト、それももぎたてのやつを囓ったときに感じる甘さは、旨さに直結します。早朝にもいだ玉蜀黍をその場で茹でた物は、売られている玉蜀黍とは比べ物にならないほど甘く、旨いのです。

 最近、コンビニの弁当とか、ファーストフードのハンバーガーなどは、旨くないのに甘いですね。これはどうやら、人間の味覚が甘い物を美味しいと捉えてしまうことを狙っているようで、甘くある必要のない物まで不必要に甘くなっています。どの弁当でも、砂糖だけならまだしも、ソルビトールやエリスリトールなどの人工甘味料が使用されています。これは例外なく、海鮮丼にまで使われているのです。
 化学調味料、最近では化学と言う言葉がどうもいかんというので旨味調味料などという本来の旨味を侮辱するようなネーミングになっていますけれど、これらは、そのほとんどが甘味を加える作用があります。旨味調味料の入っていない外食など探すこと自体が無謀と言える現代においては、自然の甘味は人口の甘味で覆い隠され、偽物の旨さに騙されているというのが現状です。

 そのくせ、本来であれば頭が痛くなるほど甘くあるべきだったものが、甘さ控えめなどという事態に発展しています。そりゃあ、甘い必要のない干物まで調味液に漬けられて甘くされてしまっているのですから、デザートはさっぱりという方向も必然なのかもしれませんけれど、甘くなけれデザートの意味がありません。「甘くないからいくらでも食べられる」なんて喜んでケーキバイキングに勤しむなどという愚行が生じるのです。もし、筆者がどうしても甘い物が食べたくなって、恥ずかしいながらも勇気を出して飛び込んだ甘味所で出されたぜんざいが甘くなかったとしたら、そのショックは警察沙汰にまで発展するかもしれないというのに、余計なものが甘いおかげで、甘くなければならない物が甘くなくなってしまったのです。

 大量生産・大量消費の世の中では、味の平均化が進んでいます。これは食という文化の崩壊を意味しています。文化というのはすべてが微妙なバランスで成り立っているものですから、食の崩壊は、日本文化全体の崩壊をも意味してしまいます。味だけでなく、あらゆるものが平均化しているのです。

 そもそも、考えられないのですからそれが当然なのかもしれません。

なぜなぜなんでなのか

  • なぜ髪の毛を染めるのですか
  • なぜプラダが欲しいのですか
  • なぜビトンを身につけて電車やバスに乗るのですか
  • なぜ新しい携帯電話が欲しいのですか
  • なぜ赤川次郎が好きなのですか
  • なぜ家が欲しいのですか
  • なぜガーデニングなのですか
  • なぜハリウッド映画はいつでも全米No.1なんですか
  • なぜそのCDを聞いているのですか
  • なぜ癒されたいのですか
  • なぜデジカメが欲しいのですか
  • なぜ痩せたいのですか
  • なぜカーナビが欲しいのですか
  • なぜ歩き方すら知らないのに厚底ブーツを穿いて不格好に歩くのですか
  • なぜPDAを持ち歩いているのですか
  • なぜ旧外務大臣が可哀想なのですか
  • なぜ眉毛を剃るのですか
  • なぜ
  • なぜ
  • なぜ
使い捨ての流行

 一九二六年一二月二五日、浜松高等工業助教授の高柳健次郎は、電子式のテレビ実験に成功しました。ブラウン管に映し出されたのは片仮名の「イ」。その日は、大正時代が終焉を迎えた日でもありました。昭和という時代は、テレビと共に生まれた時代だったのです。
 余談ですが、テレビ実験に片仮名の「イ」が使われたのは、どうやら「いの一番」からとったという冗談のような理由らしいのです。

 さて、「いろはにほへと」などすっかり忘れられてしまった平成のいま、テレビは一人一台が当たり前になりました。いくらウサギ小屋と揶揄される日本の住宅事情とはいえ、出生率の低下と核家族化により、子供だって自分の部屋を持っています。もちろん、子供部屋にだってテレビはあることでしょう。
 子供は自分の部屋で自分の好きなテレビを観られます。お父さんは居間で大好きなプロ野球中継を観られます。お母さんは全自動洗濯機でさっさと洗濯を済ませ、お昼のワイドショーに夢中です。今、テレビというメディアは、異なる世代、異なる属性にあわせてピンポイントな情報を注入できるのです。

 思想の消えた今、メディアからの情報にも、思想の臭いはあまりありません。報道番組では、多少の傾きを感じられるようですけれど、それでも、視聴率を犠牲にしてまで局の信念を貫くということもありませんし、そもそも、信念自体があるとは思えません。あるのは、利益のことだけでしょう。  利益となると、そこは腐っても巨大メディアなテレビ。世代の分断くらいはお見通しですから、それぞれの世代に、それぞれの消費を喚起するような情報を流すことだけは忘れてはいません。

 消費を喚起すると言っても、不景気ですから大きな出費は引き出せまない。小さな流行を作り、小銭を吐き出させ、すぐに新しい流行にシフトさせるという、薄利多売な流行が、作られては消費されているのです。
 あちらからこちらへと、関心事はころころと移っていきます。昼時の主婦向け番組では健康によいという食品が毎日のように紹介され、スーパーの中は「○○で取り上げられた××に良い食品です」という札で埋め尽くされています。

 使い捨ての流行を、人々はやはり、次々に消費していくだけですから、なにかが根付くということがありません。
 文化の継承もなく、新たな文化が生まれることもなく、一億総貧乏時代の幕が開けたのです。
 考えられない。教えてくれない。あらゆるものの平均化。そんな中、一番損なわれているのが「個」なのです。

個を求める小さな流れ

一億総貧乏時代  ある日突然、ふと気がつく。周りがみんな、同じような格好をして同じような曲を聴いて同じような髪をして同じようなテレビを観て同じような雑誌を読んで同じような会社に行って同じような店に行って同じような愚痴をこぼして同じような眠りについて同じように死ぬ。

 今の世の中、あまりにも個がありません。どこかへ行ってしまいました。探しても見つかりません。考え創り出すものだからです。

 携帯電話の着信メロディーで個性を出そうとか思っている連中なんか、所詮は誰かの曲を他の誰かが携帯電話用に打ち込んだものをダウンロードしているだけです。個性でも何でもありません。まあ、高校生あたりがやっているのなら微笑ましくもありますけれど、大人がムキになって着メロを集めている姿などは馬鹿馬鹿しくて笑うしかありません。
 だいたい、個性を物によって出そうとしている事自体が間違っているのですけれど、考えられないのですから仕方のないところでしょう。

 そんな世の中での生活。感性の鋭い人ならば、その感性によって不快感を覚えるでしょう。ふと周りを見渡したときに、おかしいと感じる人もいるでしょう。

 小さな、ほんの小さな流れですけれど、一億総貧乏時代という不快感から剥がれ落ちようとする人も存在します。国民が一丸となって貧乏に転がり落ちる今、その塊から剥がれ落ち、独自の道を歩み出すという細い流れがあるのです。

 日本が巨大な岩石となって貧乏くさい閉塞感へと転がり落ちていく際に生じる僅かな軋み、振動、摩擦。なにかの拍子で、そんな塊から削れ落ちられないだろうか。砂粒でも良い。いっそのこと、奴等の落ちる貧乏くさい場所ではなく、本当の貧乏へと降りてしまうことで、楽しくやっていけないものだろうか。個を磨けないものだろうか−−。

 偽物に囲まれた暮らし。人々が行き着く先もまた、偽物の貧乏です。与えられた暮らしに別れを告げ、自分本来の生活を創り出す。これこそが、全日本貧乏協議会の考える貧乏なのです。
 貧乏くさい世の中を、貧乏という底辺から傍観して笑いながら自分の好きなことでもやってみようかなあ、なんて思ってしまう訳なのです。

 一億総貧乏時代の中で、世の中が転がり落ちていく貧乏と、全日本貧乏協議会の唱える貧乏とは、まったくの別物です。
 いきなり金持ちになるのは難しい話です。だったら、あれもこれもと言いながら汲々とするよりは、自分という個を確立して、もしくは確立するために時間と金を使い、それ以外のことには無関心でいられる貧乏の方がよほど楽しいのです。
 パスカルの言う思考の尊さは、今の日本にはありません。だったらせめて、虚しく群生する考えない葦を見上げつつ、くすくすと笑うミミズでありたいではありませんか。

 他の植物の生長を阻害する貧乏草、という手もありますけれど。
6月号の後編へ続く

 連載記事

ロハな便利グッズ グッズ1 エリアガイド

グッズ  今月から始まる新コーナーでは、巷で無料入手可能な超便利グッズを紹介しちゃいます。

 最近では、地図も100円ショップで売られるようになりました。だけど、やっぱり大切なお金を払うのはイヤですよね。
 けれど、万引きは犯罪だからダメ。子供ならともかく、いいトシこいたオトナが「100円ショップで地図を万引き」だなんて、これじゃあ周りも呆れて職を失っちゃいます。

 どうにかタダで地図が手に入らないかなあ……って時、実は、高速道路のサービスエリアがお薦めなのです。

 「え〜、高速道路じゃあ入るのにお金取られちゃうじゃな〜い」というあなたは貧乏が足りません。そんなときに頼るのは、週末や連休に馬鹿面してお出かけしちゃう庶民ども。
 「今度の週末はどこへ行ってどうしてこうしてあんな物まで食べちゃうの」なんて浮かれ気分で話しかけてきやがったら、「サービスエリアで『エリアガイド』を全種類もらってきて、タダだから」と、注文しておきましょう。あ、そんなお願いをするときは、「どうせ土産なんてくだらない物しか買えないんだろうからいらない。エリアガイドだけでいいよ」と付け加えることを忘れずにね。
 高速道路で手に入るエリアガイドは、高速自動車道別の広域地図。だいたい縮尺は50〜60万分の1なので、細かいところまではわからないけれど、大まかな情報を手に入れるには十分実用になっちゃいます。これさえあれば、100円払って地図を買う必要なんてナッシング。
 地図というのは、気になるニュースの裏を読んだり、歴史を追ったり、ダーツの旅に出かけたり、暇なときにぼーっと眺めたりするのに最適。持っていて損はありませんね。

 とはいえ、関東のサービスエリアでは東北から中部地方くらいまでの地図しか手に入りません。北海道や九州まで車で出かけちゃうような酔狂な知り合いがいたならば、忘れずにお願いしておきましょう。

 というわけでN井さん、九州に行くときにはエリアガイド、よろしくね。

 ちなみに、私の持っているエリアガイドは、引っ越しの手伝いで山梨まで出かけたときに手に入れたもの。もちろん高速代は引っ越しをする側が持ってくれましたから、タダで手に入れられちゃいました。

 タダって、素敵すぎますよね。


 投稿記事

 読者の声
 〜お聞かせください、あなたの声〜

読ませていただくと 身が引き締まる想いです。
エロム

読んでくださる皆様がいらっしゃると、身が引き締まる思いです。
会長

おおむね5月29日現在の残高710円って。
か、会長、クール・・・・。
伊東家の食卓貧乏編

今年の自動車税は頑張って期限内に払ってしまったのです。
最近は更新をさぼっていましたけれど、いつも月が変わる頃にはそんなもんです。
会長

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 編集後記/次号のお知らせ

 編集後記
今月で一億総貧乏時代の幕開けが完結するはずだったのですけれど、なんだか長くなってしまいまして。来月こそ、完結します。お笑い企画も第二特集として用意したかったのですけれど、いやあ、無理でした。来月号こそは、なんとか二本立てで。で、なんと今月はシゲ君からの原稿が届きませんでしたので、急遽、新連載を始めてしまいました。本当は、もうすこしネタを貯めてから始めたかったのに。人生見切り発車。ところで、もうホウ酸団子の配備はお済みでしょうか。梅雨に入ってしまうと乾燥させるのも大変です。作るなら、今が最後かもしれませんから、お急ぎください。(か)
 次号のお知らせ
耐乏Press Japan.月号(6月下旬発刊)
特集:一億総貧乏時代の幕開け 〜全日本貧乏協議会の考える貧乏とは〜 平成一四年度版 後編 連載記事:ロハな便利グッズ(2)/シゲ君の嗚呼、高校三年間(12) 投稿記事:皆様からの投稿をお待ちしております
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耐乏Press 耐乏Press Japan. 2002年5月号 発行:全日本貧乏協議会(taku3@jh.net) 発行部数:13665 冊
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