耐乏PressJapan.
Apr.
2002
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 2002年4月号目次

特集
一億総貧乏時代の幕開け

〜全日本貧乏協議会の考える貧乏とは 平成一四年度版〜 前編


 連載記事

  これ、もらいました(感涙)(8)
  シゲ君の嗚呼、高校三年間(11)
  西つくばファッション通信(6)


 投稿記事

  貧者の知恵
  貧乏臭辞典
  読者の声
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  編集後記/次号のお知らせ


 特集

一億総貧乏時代の幕開け
全日本貧乏協議会の考える貧乏とは 平成14年度版 前編 ---
大変な反響を頂いた1999年12月号の特集「全日本貧乏協議会の考える貧乏とは」が、装いも新たに帰ってまいりました。一億総貧乏時代の幕開けと共に、人々はよりいっそう、貧乏というものに目を向けるべきであるという想いを受け取ってください。
特集タイトル写真

開幕宣言

 「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」

 石川啄木の詩の、有名な一節です。「蟹とたはむる」暇があったら働けばいいのに、などという無粋なことを言う輩が居たのはバブルの頃。今では、働きたくとも働き口がないのですから、蟹と遊んで気を紛らわすのも一興かもしれません。

 今、多くの人が「世の中、不景気じゃ」と感じていることと思われます。実際にどのくらいの割合でそう感じているのかは、新聞社などが独自に調査した結果が色々と出ておりますから割愛しますけれど、バブル経済が崩壊したのも一昔前だというのに、上向く気配など皆無です。もう、景気は二度と良くならないのかもしれません。

 それもそのはず。実は、一億総貧乏時代の幕開けを迎えてしまったからなのです。

 全日本貧乏協議会は、ことあるごとに繰り返してまいりました。一億総貧乏時代の幕が開ける、と。平成一四年、新緑の映えるこの良き季節に、当協議会は高らかに開幕を宣言します。

 これから先、人々は世の中というなんだかよくわからないものと共に貧乏に転がり落ちていきます。ここで言う、人々が転がり落ちる先の貧乏とは、世の中で広く使われている意味での貧乏であり、当協議会の言うところの貧乏ではありません。当協議会の提唱する明るく楽しい貧乏とはまるで違う、辛く苦しい閉塞感を伴う貧乏です。一億総貧乏時代にあっては、人々は、踏ん張ろうとすればするほど、時代の流れに逆らって過去に縋ろうとすればするほど、「貧乏」ではなく「貧乏くさい」生活に落ちていくのです。

 転がり落ちるか、自ら降りていくのか。最後の選択がやって来たのです。
一億総貧乏時代へ至る歴史・敗戦
一億総貧乏時代  バブル経済の終焉から現在までは、二十世紀型のあらゆるものが衰退するための準備期間でした。これこそが、一億総貧乏時代幕開けの潜伏期間だったのです。その始まりは、七十年代から八十年代への移り変わりにあるのですけれど、敗戦からの歴史を簡単に追っていくことにします。

 戦後の日本には、思想がありました。
 昭和二十年の敗戦後、GHQによる占領統治によって日本の再興が始まります。なにせ、国土は戦前の半分程度ですし、昭和二十一年の鉱工業生産水準は戦前(昭和九年〜十一年平均)の三割程度。空襲でなにもかもが破壊された国に、六〇〇万人の復員・引揚者を迎えなければならないのですから大変です。
 戦時中、日本は次々に領土を拡大していったとはいえ、エネルギーとは無縁でした。そんな状況で大国であるアメリカと戦ったのですから、国の資源は絞り出し尽くしていました。戦中・戦後の日本は、確かに貧しかったのですが、金はあったのです。その金で買う物が無かったのです。
 そんなわけですから、戦後の日本経済は当たり前のようにインフレーションに向かいます。これを鎮圧したのは有名なドッジ・ラインなのですけれど、これのおかげで今度はデフレーションです。
 こんな調子で敗戦後五年間は不安定だった日本経済でしたが、昭和二十六年四月には朝鮮特需のピークを迎えまして、なんとか戦前(昭和十年前後)の生活水準を取り戻すことができました。めでたしめでたし。

 ……と、童話ならばここで終わりですけれど、童話ではないので続くのです。

 戦後、世界は一気に東西冷戦に突入します。朝鮮半島の分裂、ソ連のベルリン封鎖、マーシャルプラン、北大西洋条約機構、ドイツ分裂、ワルシャワ条約機構。世界が西と東に分かれ、アメリカとソビエトの二大国家が力の均衡を測る。そんな中、日本でも思想のぶつかり合いがありました。
 かつて、敗戦後の日本には、日米安保闘争を核とする激しい闘争、運動があったのです。一九六〇年からのベトナム戦争に対する反戦運動などもありました。床屋や銭湯などの庶民の集まる場所では、政治に関する会話が日常的に交わされていたのです。

 しかし、そんな熱い時代もすでに昔話。七十年代が終わり、八十年代に突入すると共に、日本から思想は消えて無くなります。
一億総貧乏時代へ至る歴史・八十年代
 「日米安保の自動継続ですべてが終わった……。俺達は挫折したんだ」

 かつて水道橋で石を投げていたという人が、筆者に対してこう言いました。

一億総貧乏時代  ベトナム戦争が終わると反戦運動も雲散霧消し、安保条約が自動継続となることで、安保闘争も終わってしまいました。学生運動に若さのすべてを注いだ人々の味わったものを、筆者にはわかることができません。けれど、ひとつの時代が終わり、新たな時代の始まった区切りであると捉えることは可能なのです。
 七十年代と八十年代の間には、確実に切り替わりが存在するのです。
 現在は長野県知事を務める方のデビュー作も、一九八〇年に書かれました。そういう時代が始まったのです。

 七十年代には、すでにファーストフード店やファミリーレストラン、コンビニエンスストアなど、多くの現代人には必要不可欠なものが日本に登場していましたから、日本が消費という甘美な行動に移行する下地は準備されていました。高度経済成長によって世界屈指の経済国にのし上がった日本の人々から思想が消えた八十年代、消費へのシフトなどは簡単なことでした。

 とにかく金はある。家は一生の買い物というくらい大変なものですけれど、だからこそ、それ以外のものに金の使い所を示してあげれば、人々はほいほいと面白いように消費していきます。消費のためのメディアが台頭するのも八十年代で、まさに「カタログ文化」の時代でした。
 ポパイこそ一九七六年に創刊されていましたが、オリーブやモノ・マガジンが一九八二年、ハナコが一九八八年に創刊され、あちらでもこちらでも、なんとなくクリスタルな生活を謳歌させる若者で溢れていたという次第です。

 動物園に足を運ぶと、様々な動物を見ることが出来ます。孔雀の尾の美しさは広く知られているでしょうし、求愛行動のためのものだということもご存じかと思います。真っ赤な喉を膨らませて威嚇をする鳥、つのの大きさで優劣を競う動物もいます。人間も、着飾ることによって威嚇をしたり、異性を引きつけたりという効果を得ることが出来ます。カタログ文化は、人間の内にある動物としての本性を利用しました。結果、優劣を競うための消費へと人々を誘導することに成功したのです。

 自分の感性を頼りに気に入ったものを探すのではなく、見せかけのステータスを手に入れるために誰でもそれと一目でわかるような物をカタログ雑誌から選ぶ。多くの人が高価だと知っているものを手に入れることに躍起になる不毛な時代の始まりこそ、八十年代なのでした。
一億総貧乏時代へ至る歴史・バブル経済とマニュアル文化
一億総貧乏時代  そんなこんなでバブル経済。馬鹿が金を持つとろくな事にならないと証明してくれた狂乱の時代が訪れました。
 十年以上経った今でも、バブル経済についての検証はあまりに不十分で、決定打がありません。経済学者がそんな状態であるのに、最終学歴が工業高校の筆者に多くを語ることなど不可能ですが、カタログ文化がマニュアル文化へと移り変わった時代であるということだけは、語ることにします。

 バブル経済の始まりは、女子大生・OLを中心とした財テクブームがその一端を担っていると言われています。財テクブームは、八十年代のカタログ文化と密接に関わっており、その点については整合を取ることが出来るのです。
 財テクブームは、「ブランド品を買いたい」という若い女性の欲望が根幹にあります。海外旅行も、「日本よりもブランド品が安い」という理由が動機であることが多かったですから、ブランド品一本に絞ってしまっても差し支えがないでしょう。
 そんなカタログ文化をマニュアル文化へとシフトさせた第一の要因が、財テクブームです。

 株を買うといっても、なにをどうしたらいいのやら。そんな人を対象にした入門書がちまたに溢れました。日本人海外旅行者数が一〇〇〇万人を超えたのは、バブル全盛の一九九〇年。八五年には五〇〇万人弱でしたから、これぞ爆発的な伸びというやつです。財テクでお金を貯め、海外でブランド品を買いあさるという典型的な旅行者のための海外旅行入門書なども、もちろん売れました。
 物をカタログから選ぶことから、物を買うための手段についてマニュアルを参照することへシフトした好例が、財テクブームです。

 マニュアル文化へのシフト、第二の要因は、コンピュータの浸透です。
 主にパーソナルコンピュータ、つまりパソコンに絞って書くことにしますけれど、日本でパソコンが事務機器として実用レベルになる頃と、バブル経済とは重なっています。
 パソコンで日本語を扱うことが容易になり、性能もうなぎ登り。デザイン業界がいよいよ本腰を入れてコンピュータ導入を始めたのも、バブルと前後しての話だったようです。
 ノートパソコンの発売も、バブルの最中である一九八九年。デスクトップパソコンに比べると画面がモノクロであったり、処理速度が遅かったりするのに値段だけは高いノートパソコンは、外出先でもコンピュータを使いたいなんていう酔狂かつ仕事熱心な人以外には用のない物でしたけれど、そういう用事のある人がいっぱいいたのか、それともパソコン=高いというステータスからなのか、よく売れたのです。
 パソコン=一部のマニアが喜ぶ高価なおもちゃという図式は、この時点で過去の物になりました。仕事をする上で、ワープロと表計算は必須。今まで一度も触れたことがないといった人々にも、パソコンを使わなければならない理由が発生してしまったのですから大変です。ここでもやはり、マニュアルというものが入り込むのです。

 ある程度の年齢に達してからパソコンを覚えるのは大変なようです。考えてみれば、あんな訳のわからない配列のキーボードをすらすらと叩けるようにならなければ仕事の効率は上がらないのに、それが出来るようになるまでの苦労と言ったらないでしょう。横文字だらけの世界ですし、その横文字を日本語に訳した物はより難解な言葉になります。マニュアルにしたがって触ることしかできないとしても、仕方がないことでしょう。

 ファッションもショッピングも、仕事も、最近では電話機すらもマニュアルに頼らなければならない。カタログ文化からマニュアル文化への移行は、こうして遂げられたのです。
一億総貧乏時代へ至る歴史・リストラクチャリング
一億総貧乏時代  野口雨情という人をご存じでしょうか。茨城県出身の詩人ですが、童謡作家として有名な人です。ご存じのない方でも、雨情の「しゃぼん玉」はご存じだと思います。早大出身者なら、早大ってのは中退するもんだという代表例としてご存じかもしれません。そんな雨情の書いたしゃぼん玉のごとく、バブルは崩壊しました。

 バブル経済が終焉を迎えると、当然の事ながら企業もばたばたと倒れ、生き残った企業もバブルで無駄に肥大した経営を立て直さなければならなくなりました。リストラクチャリングという名の事業撤退と人員削除は今でも続いています。
 リストラという名の首切りでは、利益を導き出す現場よりも、非生産部門を切った方が手っ取り早いという訳で、総務・経理・人事などの部署が縮小されてしまいました。
 実は、こういった非生産部門こそが、マニュアル文化の中で企業を支えてきた頭脳であったのです。

 ここで言うマニュアルとは、コンピュータオペレーションの手引き書のような細々したものではなく、企業を根底から支えていた見えざるマニュアルであり、頭脳の中にのみ存在していた物すらもあります。高度経済成長の頃から脈々と受け継がれ積み重ねられてきたノウハウもあったことでしょう。
 それが、プッツリと切られてしまったのです。

 目先のことに囚われ、自分の足を喰って餓死を逃れた企業がその重大さに気がついたとしても、それを取り戻すための金も時間も無いのです。
 結果、形として残っている遺跡のようなバブル時代のマニュアルをいまだに引きずって行くしかないという結果になってしまいました。

 世の中には、頭脳集団によって導き出された予測を商品としている企業も存在します。金さえ出せば、商品化された未来の予想図を買うことは出来ますけれど、新聞などで見かけるそれら頭脳集団の予測が当たった事例など、筆者の記憶にはありません。
 世界の明日を読むなどと言うことは大変に難しいことで、予想範囲が狭ければ狭いほど当たる確率は高くなるにせよ、膨大な情報と、それを処理する能力を問われます。リストラによって切り取られた企業の頭脳達は、直接の利益を生むことはありませんけれど、その企業の未来という限定された範囲における明日の天気を当てる為の技術や情報、経験や勘などは持ち合わせていたはずです。

 バブル崩壊後、各企業が生き残りのために行ったリストラによるダメージは、ボディーブローのようにジワジワと効いてきます。十年が経った今、そのダメージはノックアウト寸前であるのです。
一億総貧乏時代へ至る歴史・二十一世紀の二十世紀
マニュアル
予想したくない事態に対する対応については、一切の記述がない、無事を前提とした手引き書。ゴリラ用の育児マニュアルビデオなんてものも存在するらしい。
 今でもバブル時代のマニュアルに頼っているのは、企業だけではありません。企業で働く人々、企業の作るマニュアル本を買って読む人々も、同様なのです。メディアから流れてくる情報も、その多くが、バブルの頃のおいしい思いを忘れられずにいる人々をリーズナブルな消費に導こうとしています。
 マニュアルに従うことに慣らされてしまった人々に、新たなマニュアルを創り出す力は無いのです。

 いちど知ってしまった密の味を忘れることは難しい。消費という甘美な行動を捨てることは難しいのです。そこへきて、今になってもバブルの頃の体質は一向に改善されていません。そこへ、二十一世紀が来てしまいました。
 二〇〇一年九月十一日。アメリカの同時多発テロです。

 軍隊というのは、もっとも管理された組織です。企業などの組織は、軍隊を見本として組織されているという実体があります。あらゆる組織にとって、軍隊というのは最高のマニュアルと言えます。そのマニュアルたる軍隊の中でも世界一と言われるアメリカ軍ですら、アフガニスタンでは散々でした。すでに二十世紀は終わり、二十一世紀が来たことを告げる出来事だったと言えます。

 もはや、日本に新たなマニュアルを創り出す能力は無いのです。国の経済政策がいまだにケインズではお話になりません。今までの仕組みを、部屋の模様替えをするかのように変えるだけの構造改革すら進まないと言うお粗末な政治。二十世紀の残滓をちびちびとすするだけではありませんか。

 二十一世紀の訪れをお祭り騒ぎだけに終わらせ、考えることを知らずに二十世紀のままでいようとする最悪の時代。一億総貧乏時代の開幕合図は、世の多くの人々が知らぬところで鳴り響いているのです。
五月号の後編へ続く

 連載記事

これ、もらいました(感涙)
 記憶その8 4月の貰い物


貰い物 読者のA様より、うどんとチョコレート、お茶を頂きました。山菜の時季でもありますから、山菜うどんなんて楽しみ方ができてしまうのです。コゴミの天ぷらうどんなんてのも、考えただけで頬が緩みそうです。チョコレートは、徹夜時の血糖値アップに役立たせていただきました。A様、本当にありがとうございました。
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貰い物 読者のW様より、韓国土産を頂きました。韓国海苔、煙草、インスタントスープ、観光韓国、そして航空会社のボールペン!! ボールペンはよく使うので嬉しいです。海外の観光マップなんて言うのも、眺めているだけで楽しいです。煙草も重宝しますし、韓国海苔は、酒の友として有効利用させていただきます。W様、いつもありがとうございます。
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このコーナーは、皆様からいただきものを頂戴したときだけの不定期連載です。いや、その、定期連載にできればこれほど嬉しいことはありませんので、お気軽にお問い合わせください。いやあ、なんだか図々しいですけれど、まあ、その。
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 嗚呼、高校三年間 第11回 ”16才の夏”の巻

 どうも、シゲです。
 新年度、いかがおすごしでしょうか。
 結核にかかってしまったおかげで1年間の休学を強いられた僕も、4月からは再び大学に通っています。新1年生に混じって旧1年生として勉学に勤しんでいるのであります。

 さて、僕の高校時代を振り返るという名目で始まってしまったこの連載も、今月と来月の2回で最後になります。結核病棟ネタなんかは高校卒業後の話でありましたが、余興と言うことでご容赦願いたいと思う次第であります。

 最後の2回は、高校在学中の一番大きな出来事だった16の夏について書きます。

 中学の頃から出入りするようになった喫茶店での茶飲み話で、マスターがその昔に、いわゆる「ダーツの旅」をやったことがある・・・なんて思い出を語ったのが、そもそもの始まりでした。
 そこにいた一人がおもむろに全国版の道路地図を持ってきて、目をつぶったまま好きなページを開いて指でえいっとどこだか知らぬ場所を指す。冗談混じりに、居合わせた人たちが次々と「行きたくもない場所」を指していきました。このとき、会長が選ばされたのは姫路で、彼も最初は冗談で済ませようと考えていたようでした。

 僕が行くことになったのは、安比高原。
 茨城から岩手までだから、当時、交通手段としては50ccのTS50しかなかった僕にとっては長距離。
 けれど、TS50が家に来たばかりだったこともあり、なんだか簡単に行って来られるような気がして、夏休みを利用して本当に行ってきてしまったのであります。
 はっきりした記録もないし、今となっては詳細な記憶は薄れてしまいましたけれど、なんとか思い出しながら書いてみます。

 1日目、意気揚々と家を出たものの、慣れていないせいもあってか、益子まで走るのが精一杯でした。車だったら2時間もかからない距離なのに、これが限界でした。さすがに無謀な旅なのかなあと考えつつも、駐車場の片隅を借りて一泊しました。

 朝の4時頃、うるさいスクーターに乗った危なそうな奴がやって来て、「工具を貸してくれ」と言うので貸してやると、近くにあった車からガソリンを抜いて去っていきました。世の中って一体どうなっているのでしょう。

 2日目は、少し慣れてきたこともあって、かなりの距離を稼ぐことが出来ました。益子を出て、常陸太田から国道6号を北上し、宮城県までたどり着くことが出来たのであります。この飛躍的な距離の伸びが、多少の自信になったし、途中で引き返すことなくこの旅を完遂する原動力になったように思えます。山元町の山中にある公園で、特別に天幕を張らせていただいて眠りにつきました。

 ・・・うーん、メモも無いし、写真も少ないのでなかなか思い出せることがないのですが、こんな感じで旅は続くのであります。
 ちなみに、後日に本当に姫路へ行くことになってしまった会長は、車での旅だったこともあって詳細なメモを残していますが、その半分が泣き言という面白いものでした。
 もし、僕もメモを書いていたなら、どんなことを書いたのだろう・・・。

 というわけで、最終回に続くのであります。

つづく
シゲ

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西つくばファッション通信 第6回 葬儀は急にやって来る

お葬式セット
長袖ワイシャツ/ポリエステル65%・綿35%/899円/ファッション市場サンキ黒ネクタイ/ポリエステル100%/590円/ファッション市場サンキベルト/合成皮/99円/ファッション市場サンキ
 めでたい話というのは、ある程度の予定を知ることが出来ます。大抵は、あらかじめ招待状などが巡ってまいりますので、日頃から貧乏であることを公言してさえいれば断るのも簡単です。しかしこれ、葬儀となるといきなりですから困ります。どうしても出席しなければならない間柄の人間が急に逝ってしまうと、いくらなんでも出なければならない場合があるものです。そんなときでも、サンキは力になってくれました。

 黒のスーツは残して置いたのでなんとかなりましたが、白のワイシャツも黒のネクタイも黒のベルトも持っていませんでしたので、これらをサンキで調達。急な話ですから安売りを待つわけにもいかず、ワイシャツとネクタイは若干高め。しかしそこはサンキ。学生用合成皮ベルトは、なんと99円です。どうせ上着を着たままだし、葬式で他人のベルトをまじまじと見る奴もいないでしょうからこれで事は足ります。だったらベルトなんか無くても……と思われた方もいらっしゃるかもしれませんけれど、今の私はサラリーマン時代のズボンなんてベルトがなければ穿くことが出来ないのです。
 なにはともあれ、サンキの駐車場で値札を取り、そのままお通夜へと向かった影響で、4月号が5月に発刊ということになってしまったのでした。

今月のお値段:¥1,588(税別)

 投稿記事

 貧者の知恵 私の経験では、ご飯よりパンのほうが腹持ちがよいようです。それもパンの耳(パンのへた)がベターです。食べた直後、多量の水道水を飲んで胃酸を薄めれば、その分消化が遅くなってハッピーです。
渋谷智弘
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 貧乏臭辞典 庭の花壇の周りにビール瓶を埋め込む
悪あがきはしないがよかろうです。
渋谷智弘
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 読者の声
 〜お聞かせください、あなたの声〜

はじめまして、図書館で借りてきたnetn@viにアドレスが載っていたので、早速、読ませて頂きました。

私、自身、物にあまり執着しない人間だと思っていましたが、まだまだですね。

知り合いの方に、師匠と呼びたい方がいられるので、その方の事を、ちょこちょこと投稿しようかなと思っています。

第1回目
食べるものは殆ど畑で手作りです。季節に合わせて何種類も作っています。
例えば、そらまめも最初は茹でて食べて、取れすぎたものは必ず、煮豆にして、冷凍保存。手前味噌は当たり前。とうふ、ヨーグルトなども作ります。
米も昔は作っていたそうです。そんなに広い庭ではないのですが、今の時期蕗、山椒がありました。他には柿、スモモ、梅(勿論これで梅干)などの木がありました。筍も畑の横の竹薮から掘ってきます。この筍、煮て食べるのは当り前ですが、それをホットケーキミックスを衣にして低温で揚げると、アラ、不思議、お茶菓子に変身です。言われないと筍だと分かりませんでした。ゼヒ試してみてください。

とりとめのない文で失礼しました。

つのようこ

 私も引っ越しをして、庭が少し広くなりました。
 今、玉蜀黍の芽が出て、はやく枝豆とミニトマトと青紫蘇と鷹の爪も顔を出さないかなあと心待ちにしながら撒水しています。

 もぎたての玉蜀黍をその場で茹でてから焼いてビール。枝豆も引っこ抜いた奴をすぐさま茹でてビール。冷や奴に庭の青紫蘇を添えてビール。葉唐辛子を佃煮にしてビール。そんなことばかりを考えています。

 ……酒の肴しか植えてないかも……。

 2回目、3回目もよろしくお願いいたしますね。

会長

たしか、4月の会長の日記に、インターネット代が一万円超えた、というのがあったと思うんですが。

今時!!
インターネット代が一万円超えるって!!
会長のとこ、プロバイダとか、どこ使っているの?
(ちょっと、言葉、なれなれしすぎかも)(^^;)
まさか、ネットを使えば使うほど電話代がかさむ、みたいな昔のやり方でネットをつなげてるの?
今時!!
私は最近ヤフーBBに入っちゃったのです。
月々3120円ぐらいで、24時間接続できるんです〜。(消費税混み)
BBにはいるときはNTTの工事代2800円を別に取られるみたいだけどね。
かかるのはそれだけだと思う。
取り付けは自分でやればただ。(工事人がきてもただだけど、会長に工事人は要らないよね)
まあ、会長の性格だと(と、勝手に推測)孫正義がかかわっているよなもんに手は出したくねーとかあるかも知らんけど。
でもね。
インターネット代一万円は、貧乏道の風上にも置けない贅沢じゃないかえー。
そこんとこ、どう?
(いよいよなれなれしい)(^^;)

自分のサイトがあると、ちょっと大変かな、プロバイダを変えるのは。
でも、一万円はなあー。
会長、考えなはれ。

伊東家の食卓貧乏編

 ADSL開通の興奮と喜びが、文面からもヒシヒシと伝わってきます。おめでとうございます。

 しかしながら私の場合は残念なことに、伊東家の食卓貧乏編様のおっしゃる今時!!からは無縁な土地に住んでおります。
 猫も杓子もブロードバンドで、あたかも日本全国津々浦々までという印象をお持ちになってしまうのは仕方のないことかもしれませんけれど、これこそ、メディアによる情報操作の成功例と言えます。

 xDSLもCATVも、石下町には届いておりません。
 隣町は日本一の科学研究都市なんですけれどねえ。

 じゃあせめてテレホーダイとおっしゃるかもしれませんけれど、これも理由があって没にいたしました。
 たとえテレホーダイを使ったとしても、ネットを利用するのは夜間だけではないし、結局、通信料金は良い勝負になると思います。

 電卓をはじきながら選んだのが、月額1,280円、電話代3分8円(深夜3分40秒8円)のプロバイダ+電話会社という訳なので、なにとぞご了承ください。

会長

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 編集後記/次号のお知らせ

 編集後記
この耐乏PressJapan.での長期連載を快く引き受けてくれたシゲ君。その連載も、いよいよ来月が最終回となります。月を追うごとに文章にも磨きが掛かってきていますから、最終回の原稿を受け取るのが楽しみでなりません。まだ十代の彼です。若さという吸収力を存分に発揮して、大学生活を楽しんでほしい……。すでにオジサン化している私などはそう願ってしまうのです。まあ、心配などしなくても、癪にさわる大学生は勝手に大きくなりそうです。私も、彼に追い抜かれないようにちまちまとやって行こうかと思い耽る春も終わりに近づいた夜でありました。(か)
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耐乏Press 耐乏Press Japan. 2002年4月号 発行:全日本貧乏協議会(taku3@jh.net) 発行部数:15603 冊
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