どうも〜シゲです。
この連載も気がつけば9回目ということで、あの忌々しい新・貧乏物語と肩を並べるまでになりました。まだまだ続く予定なので、来月号が本当に出るのであれば確実に抜きます。
というわけで、結核病棟24時もいよいよ最終回であります。
入院生活にも慣れた5月に大部屋へ引っ越し、僕の入院生活もにぎわいました。そんな大部屋の人々はみんな、個性的なのでありました。
○たった5分で……
引っ越し当時、大部屋にいたのはじいさんふたりと、インドネシア人ひとりでした。じいさんのうちひとりは終戦のときシベリアに連れていかれて、片方の足をなくした人で、もうひとりは、竹籤を編んで籠を作るのが趣味の人でした。シベリアじいさんはおしゃべりな人で、すぐに仲良くなりました。数日後、違う部屋のじいさんがなにやら騒いでいて、食堂にいってご飯を食べていたシベリアじいさんに「どーしたんでー?」と聞くと、「飯が来るのが5分遅れたって怒ってんだ」……。
食べるくらいしか楽しみがないとはいえ、どーしよーもありません。
○趣味のエンジン磨き
門井くんが見舞いに来たときのことです。2、3日前に冗談で「ひまだからエンジン持ってくればポート研磨してやっど」と言ったところ、こいつ、本当に持ってきやがったのであります。毛布にくるまれ、鞄に入れられたそれは、まさしくエンジン。目を疑う暇もありません。言ったからには磨かなければなりませんが、さすがに室内でやるわけにもいきません。屋上でエンジンを磨く毎日が過ぎ、オヤジには頭にタオルを巻いてエンジンを抱えながら移動する姿を外から目撃されてしまいましたが、ピカピカに仕上げてあげました。
でもそのエンジン、まだ組んでません。いつになったら出来上がるんだろう。なあ、門井くん。
○結核外人
最近、異人さんをよく見かけるようになりましたが、結核に国境なしというわけで、僕の入院中もブラジル人ひとりとインドネシア人ふたりが入院していました。後者の内ひとりは同じ病室だったのでありますが、彼は病院食、と言うより、和食が苦手らしく、よく残してはカップヌードルの海味を夜10時頃に食べていました。しばらくして彼は風邪を引いたのですが、吐きまくっていたので、夜食の食べ過ぎで胃が壊れたはないかと思ったくらいです。もうひとりのインドネシア人は、僕のオヤジが聞いたところによると、入院前は僕の家の近所で白菜を作っていたらしいのです。彼は日本食はなんでも好きで、特に漬け物が好物。国に帰って白菜を作るのが夢らしいです。
僕は、彼らよりも先に退院してしまいましたが、今頃、どうしているんでしょう。
○食べ合わせにご注意!
それは、とある日の朝でした。起床の放送で目を覚まし、特にすることはないけれど今日も一日がんばるぞと朝御飯を取りに行くと、そこにはとんでもない事実が! 僕は数日前、朝食はパンとご飯のどちらが良いかという質問にパンと答えたので、きちんとパンが用意されていました。おかずは……ひじきの煮物でした。ひじきでパンを食えと? お前はひじきでパンが食えるのかと問いたくなる気持でした。幸い、マーガリンがあったのでパンはそれで食べられましたが、ひじきとは別々に食べたことは言うまでもありません。栄養価を考えてこうなったのでしょうけれど、栄養価以外は考えてないようです。ひじきでパンは食えないよ。
○気分はアウトロー!?
シベリアじいさんが退院して間もなく、二十歳の青年が入ってきました。彼は沖縄の大きなホテルで働いていて、結核とわかり地元に帰ってきたということでした。とあるのどかな昼下がり、唐突に青年の散髪が始まりました。じつは、最初の標的は別室の早稲田大学生だったらしいのですが、沖縄青年が志願したために攻撃目標が変更されたのです。攻撃……はさみを握るのは看護婦さんです。散髪が始まると、「どうせ外出できないし、面倒くさいからモヒカンでいいや」と無謀なことを言い出した沖縄青年。どうして面倒だとモヒカンなのか理解不能ですが、看護婦の目は輝きを増し、はさみはバリカンに変わり、1時間後には立派なモヒカンになっていました。看護婦の笑い声より、記念写真を撮っていた彼の母親のほうが印象的な出来事でありました。
○嵐の七夕
7月に入り、看護婦さんたちが七夕の会を開いてくれました。屋上に患者を集めて、いざ、というときになって雲行きが怪しくなり、15分も経つと見事に嵐に。刺激物は控えるようにと言う注意に対して「ワンカップは大丈夫け?」などと人の話をまるで聞かない人たちですから、日頃の行いは最悪。当たり前の結果かもしれません。スイカ割りのために結構な数が用意されたスイカは切り分けて配られましたが、老人率の高い病棟ですから消費が進まず、3分の1は廃棄処分になりました。生ものだから仕方がありませんし、勿体ないと思ったって僕ひとりでは食い切れません。
嵐の七夕から数日後、検査結果が良好と言うことで、いきなり退院に。いきなり結核と言われての隔離病棟暮らしは、いきなり幕を閉じることになりました。
7月半ばに退院する数日前、外泊の許可が出て一時的にシャバの空気を吸ったとき、迎えに来た友人には「出所してきたみたい」と言われました。他の人々の反応も、たいていはこのパターン。それよりも、陽ざしがすっかり夏になっていたのがショックなのでした。人生2度目の浦島太郎状態でありました。
結核病棟24時 完
でもこの連載はつづく