貧乏長屋の終焉
僕が貧乏生活を始めるにあたり、まず探したのが住処であった。
当時、僕は埼玉県南部、京浜東北線の駅から徒歩八分という立地のアパートに住んでいた。家賃五万二千円+管理費二千円+町内会費二百円。1K+ユニットバス(トイレ別設計)、ロフト付き、日当たり無し、空き巣に入られること一回。会社を辞めてしまっては、そんな高い物件に住み続けるわけにもいかなかったので、まず引っ越しをしなければ始まらなかったのだ。
かくして、田舎だったら安く暮らせるのではないかというステレオタイプなイメージで田舎暮らしを決めた僕は、運良くこの賃貸アパートに巡り会ったのであった。
正確に言うと、もう貸していない物件であった。
大家は当時八一歳のジジイだった。もう歳だし、借り手も海外の人が多くなり、海外の人が住むにはまだまだまだまだ辛いことの多い国であるから夜逃げの連続で、とうとう誰にも貸さなくなって廃墟となる寸前の、あちこちシロアリに食い荒らされた跡のある平屋の建物が四棟。ジジイが拾い集めた粗大ゴミで囲まれている、東京近郊にあったならばテレビ番組が取材に来てもおかしくはないというゴミ屋敷というのが、僕の琴線に触れた。ちなみに、この頃は琴線を「ことせん」だと思っていた。
畳はボロボロで、ネズミがむしった形跡やら煙草の焦げ痕だらけで埃まみれ。かつての住人が残していった生活の残り物があちこちに転がっていた。長いこと掃除もしていない平屋のアパート内は、土足で上がり込むことを躊躇させなかった。そうそう、ゴキブリの卵も百個近くあったはずだ。
家賃は三万円+水道(井戸水)代二千円。合計三万二千円で一軒家が借りられるなら、多少のボロさは我慢できる。僕は、この物件を借りることにした。このアパートに住むと決めたときから、僕の中の貧乏が動き始めたのだと思う。
僕は、このゴミで囲まれた貧相な廃屋一歩手前の平屋を、貧乏長屋と命名した。こうして僕の貧乏生活は始まり、やがて全日本貧乏協議会が発足されるに至ったのだ。いずれは、ここに全日本貧乏協議会発祥の地として記念碑が建つかもしれないし、建たないかもしれないのだけれど、そんな思い出深い貧乏長屋も、ジジイとともに終わりを迎えることになった。
終わりと言っても、アパートが無くなるわけではない。大家が代わり、今後も賃貸アパートとして存続し続ける。だけれど、僕の琴線に触れたあの貧乏長屋ではなくなるのだ。
僕の住んでいる棟の西隣にあった建物は取り壊され、駐車場になった。東隣および北東の二棟は、現在リフォーム中で、このリフォームが終われば、僕は東隣の棟に移り、今僕のいる棟が工事に入る手はずであった。結局は、僕はここを出ていくことにしたけれど、貧乏長屋と呼べる雰囲気は、重機とトンカチで叩き飛ばされてしまった。
せめて、このページにだけでも、貧乏長屋を保存しておこうと思い、今月の特集にしてみることにした。
書斎と米櫃の同居・四畳半
南に向いている玄関を入ると、四畳半の畳部屋。
台所が狭いので、食器棚と米櫃は四畳半に鎮座している。
食器棚は不要な上に邪魔であるから撤去したいと思っているのだけれど、僕の根性は萎えやすい性質を持っているので、まだ存在している。
食器棚が難儀ではあるけれど、この部屋がいちばんお気に入りの場所であった。
暗い部屋の中で、裸電球が弱々しく辺りを照らすのが性に合っているのだろうか。
日当たりが悪いわけではなく、昼間でも、このくらいの明かりで居られるように調節してあるのだ。
暗いと汚れが目立たないからという理由ではまことに情けないので、書斎で考え込むにはこのくらいの暗さが似合うのだ、ということにしていた。
昔の家は、昼間でも暗かったものなのだ。
暗い部屋の中で、本が読める程度に照らされているのが書斎である。
書斎と言えば聞こえがよいけれど、世のお父さん達が憧れるような壁一面の本棚とか、大きな机にライトと万年筆と小さな模型があるだけとか、そういう立派な物をこしらえるだけの財力など皆無であるからには、小さな机にごちゃごちゃと物を並べてしまっている。
更に言うならば、机と言えば聞こえがよいけれど、実際には合板に足をつけただけの代物だ。どうせなら、蜜柑か林檎の木箱であれば様になるのかもしれない。しかしながら、現代においては蜜柑も林檎も段ボールで流通しており、木箱はプレミア物であるらしい。
本棚は、机の横に茶箪笥を置き、机上には缶詰と板で文庫を並べてある。
荷物を増やさないためには、たためるもの、ばらせるもので暮らすというのが一番であると、最近は考えている。
明窓浄机という言葉があるけれど、僕の場合はそういう心構えが頭の片隅に辛うじて残っているだけで、いつもは書籍と紙切れの山が築かれている。
さすがに、撮影前には片づけた。
北は台所、西は六畳間になっていて、襖を開けたりはずしたりすることで、広いスペースを確保することもできた。
台所
台所である。
会社員時代から使っている冷蔵庫やガスレンジを、やはり裸電球が弱々しく照らしている。
台所も、やはり汚れが目立つ場所であるからには、暗い方が都合がよい。
貧乏長屋において、ゴキブリの目撃率が最も高かった場所なのだけれど、ホウ酸団子をばらまいてからは目撃件数がぐっと減り、快適に暮らせた。
貧乏なのに、瞬間湯沸かし器なんて物が置いてある。
いいわけをするならば、これは僕の持ち物ではなく、最初からあったのだ。
相当古いもので、油にまみれて温度調節のつまみは回らないけれど、熱湯を出すことはできた。
寒いのが苦手な僕は、こいつにずいぶんと助けられたのだ。
貧乏長屋末期、とうとう風呂釜が完全に壊れて風呂を沸かせなくなったときも、こいつにホースを繋げて風呂に入れた。
換気扇などはもちろん存在せず、フランベをすると油煙で真っ白になった。
文明と寝床・六畳間
貧乏長屋でもっとも文明のある部屋が、六畳間だった。
なにせ、パソコンを置いてある部屋である。しかも、パソコン作業のために、明かりは蛍光灯である。
パソコンデスクは、会社員の時に買った組立式段ボール的合板。
実際には椅子に座って使う高さだったのだけれど、気に入らないので足を鋸で切り落として今の高さにしてしまった。
畳の部屋に椅子があるというのは、実に滑稽だった。
まあ、畳の上にこんな机を置くこと自体が滑稽なのだけれど、畳の部屋に絨毯を敷いたり、ましてやフローリング風マットを敷くよりはマシだと思う。
板の間って言うのは、畳の買えない人間が住んだのだ。いくら貧乏だとは言っても、せっかく畳があるのにわざわざ剥がして住もうとは思わないし、ましてや畳の上に茣蓙以外のものを敷くなんてことは、貧乏くさいだけである。
貧乏と、貧乏くさいは違うのだ。
最近は、書斎よりもパソコンの前にいる時間の方が長くて、これも困ったもんであるのだけれど、寒くなってきたので火鉢を出した。
火鉢の中で豆炭をみっつも燃やせば、秋の肌寒さ程度ならば十分に暖まることができる。
家の中で炭を燃やすなんていうと、一酸化炭素中毒が心配であるけれど、なにせ貧乏長屋。
すきま風のおかげで、その心配とは無縁であった。
すきま風があるから寒いのか、すきま風があるから火鉢で暖をとれるのか。
夕刊フジが取材に来たとき、写真を撮られたのもこの部屋だった。
あの写真を見ると、後ろにはなにやら格言らしき物が書かれているのがわかると思うけれど、あれは僕が貼ったわけではない。
貧乏長屋には、歴代の住居者たちが様々な物を残して去っている。格言と秋吉久美子のポスターも、そんな物のひとつなのだ。
「あれって、川上の趣味だと思ってた」と、少なくとも十人から言われたものだ。
ちなみに格言の内容を記しておくと、「物の浪費は補えても時間の浪費は取り返せない」「思いやりの心が乏しいと他人の気持ちが理解できない」「物事の決断が出来ない人は大切な仕事には役に立てない」「物事の善悪を自分の好き嫌いで判断していることが多い」「自分を良く見せようとすると言訳や弁解ばかりが多くなる」「財産よりもよき性格を受け継ぐことが子孫には幸せである」「批判されることを嫌がる心が自分の進歩向上を妨げている」「苦難に直面しているときは人の心が鍛えられている時である」「不平不満が多いのは物事を自分本位に考えているからである」「結果は思わしくなくても尽くした努力は力となって残っていく」。
こんなもの、どこから手に入れたのだろうか。