タイトル写真 耐乏Press Japan.
1周年記念特大号
AUG.
2000

全日本貧乏協議会


CONTENTS AUG.2000
●特集

 テレビジョンの時代は終わった

●連載記事

  貧乏大全第1巻
  新・貧乏物語(6)
 短期連載コラム
  うさちんのちょっと北の国から(1)
 特別寄稿
  鯖吉老人妄言記

 
●投稿記事

 貧乏臭辞典
 読者の声


 編集後記/次号のお知らせ


●特集

今月の特集 テレビジョンの時代は終わった
●夏のある日

ちゃぶ台の上に 夏。テレビの前にどかっと陣取ったのち、ナイター中継にチャンネルを合わせる。ちゃぶ台には、枝豆とビールという黄金の組み合わせ。世のお父さん達がささやかな幸せを堪能するには、良い季節だ。茹で立てあつあつの枝豆に、赤穂の塩なんかをパッパとふりかけ、あつあつ、ちゅぅ、ごきゅ、くはぁっ、などとやりつつ、ナイター中継を楽しむというのは、まさにささやかな幸せと言える。

 しかしながら、私の冷蔵庫には、枝豆もビールも無い。世のお父さん達のささやかな幸せなど、貧乏人には真似することなど叶わないのだ。くそ。

 だいたいにおいて、私は野球中継なんて、好きではない。あー、そうさ。サッカーの方が好きさ。サッカー中継にビールと空豆なんて組み合わせを夢見てはいるけれど、ただでさえ生中継の少ないサッカーなのに、贔屓はJ2のチーム。サッカー中継さえ、夢物語だったりするのだ。埼玉人はいいよな。きっと、ローカルテレビ局が中継やってるんだろうから。茨城に住んでいながらあんなチームを応援しているなんて知られると、何をされるかわからない。人前では、涙ながらに「水戸ホーリーホックが好き」と、心にもないことを言っていたりするんだな、実際。そんなこた、どうでもいいか。

 蝉まで鳴いてやがる。泣きたいのはこっちだ。どうせ中継されたところで、タレント化の激しいアナウンサーやら解説者がうるさく騒ぎ立てるだけだし、そんなの観たくない。そういうことにしよう。考えてみれば、ニュース番組だってそうだ。視聴者のレベルが落ちたからあんななのか、視聴率重視によるテレビ局の腐敗がそうさせたのかは別にして、どいつもこいつもワイドショーと大して変わらない番組つくりやがって。なんだか、腹が立ってきた。まだ何も食べてないし。

 う〜む。どう考えても、貧乏人の僻み根性でしかないな、こりゃ。どうにかして、これを正当化できないものだろうか。サッカー中継+空豆+ビールを実現できない自分を、テレビジョンの終焉を説くことで、なんとか正当化して慰められないだろうか。そうすれば、気を紛らわせることくらいはできそうだ。

 そんなわけで、今月の特集。私自身を慰める、テレビジョンの終焉についての話にしてしまうのであった。始まり始まり。

●テレビジョンにかかるコスト

 まず最初に、テレビジョン受像機に関する実質的なコストを割り出してみよう。身近なところから始めるのが手っ取り早い。うんうん。

 まず、テレビジョン受像機本体の価格というコストがある。今や、リサイクルショップで2,000円も出せば買えてしまうにまで低価格化を果たしたテレビジョン受信機だけれど、2,000円もあれば米が買えてしまうのだ。喰わないと死ぬけれど、テレビジョン放送を観なくても、死なない。選択すべきは米となるわけだ。

 貧乏人は、もらいもので済ませるという鉄則がある。仮に、テレビジョン受像機をタダでもらったとしても、安心はできない。スイッチを入れれば、電力を消費する。リモコン付きの高級機種になると、主電源を切らなければ、待機するだけで電力を消費してくれるという浪費家だ。「長い時間観ないときは、主電源を切りましょう」なんて節約術が生まれるほどであるが、それじゃあリモコンの意味がない。さらに、リモコンには電池が必要。電池というのは、電力供給の手段としては割高だ。

 さらに、テレビジョン受信機を設置するスペースをコストとして計算してみると、愕然とする。テレビ台やらなにやらで、畳の1/3を使うとしてみよう。もし、6畳1間のアパートだった場合、家賃の1/18は、テレビジョン受像機に使っていることになる。埼玉県川口市あたりで、1Kのアパートを50,000円で借りていたとすると(そりゃ、会社員時代の私である)、1ヶ月あたり、約2,778円をテレビジョン受信機のために払っていることになるのだ。テレビジョン受像機を設置するだけで、毎月、そこそこの米10キロを購入できるだけの出費。だったら、米を買いたいではないか。テレビジョン受像機は、喰えない。

 最もやっかいなのは、NHKの受信料だ。カラー契約の場合、訪問集金では毎月1,395円、口座振替でも1,345円も支払わなければならない。私は「周り全部の家に集金に回ってから来い」と追い返す口だけれど、弱気な人もいるであろう。ちなみに、沖縄だけは受信料が安い。「沖縄に住むと、NHKの受信料を節約できる」なんて節約術を、どこかのテレビジョン放送で取り上げないものだろうか。そうしたら、さすがに笑ってあげるけれど。

 とにかく、たかがテレビジョン受像機を持っているだけで、これだけ実質的なコストがかかるのである。更に、さらになんと、テレビジョン放送を視聴するという行為には、視聴しただけ、時間を消費することにもなる。時は金なりと言うではないか。もし、テレビジョン放送からもたらされる情報が、これらのコストを払ってでも得るべきものであるならば、「こりゃぁ、仕方がないよ」とも言える。けれども、ここで「仕方がない」としてしまったのでは、私への慰めにはならない。さて、次に参ろう。

雑記メモ

NHKのテレビジョン放送を受信することのできる受信装置(テレビジョン受像機)を設置した者は、NHKにとその放送の受信についての契約をしなければなりません。これは、放送法第32条に定められています。契約については、あらかじめ郵政大臣の許可を受けた基準に従うこととなり、この基準が、NHKの放送受信規約となっています。

NHKの集金に対し、これを拒否することは、放送法に違反することとなりますが、これには罰則がありません。これを知らずに、NHKのテレビジョン放送を観ているにもかかわらず、「NHKは観ていない」などと言って集金を逃れようとすると、放送法はもちろん、それ以外の部分でもひっかかります。それ以外の部分には、罰則があるのです。

嘘は、いけません。正直に「払えない」と言う姿勢が重要なのです。無いものは、無い。

●テレビジョンと消費

 全日本貧乏協議会が掲げる26の合い言葉のひとつに、『時間とは、商品である』というのがある。テレビジョン放送を消費するということは、自分の時間も消費することにもなるのだ。テレビジョン放送を目的無く視聴することは、時間が勿体ないだけの話である。

 私は、サッカーが好きだと前述した。ああ、余計な告白をしてしまったものだ。ホーリーホックが好きであることが偽りだと知れたら、「まあ、頑張れよな」などと肩を叩いて励ましてくれたア●トラーズサポーターに何をされるかわからない。茨城というのは、ア●トラーズのステッカーを車に貼っておくだけで交通違反の免罪符になるという噂があるくらいだから、そういう車と接触事故でも起こせば、責任はすべて私に降りかかるだろう。ア●トラーズのステッカーを貼った軽トラックが、横断歩道を渡って歩道を走り抜けるような土地なのだから、あの噂には信憑性があるではないか!

宇宙から降る電波 話がそれてしまった。ソ連のロケット横に逸れん。……おやじギャグまで滑らせてしまった。そうそう、先日行われたサッカー日本代表の試合、私はアルバイトのために中継を観られなかった。せめて、テレビジョン放送で結果だけでも知ろうと、翌日の朝に各ニュース番組をあれこれチェックしたのだけれど、どこも、日本快勝というスポーツ新聞を紹介し、日本の得点シーンを流すだけであった。どのニュースを観ても、まるで同じ内容だったというのは、私が寝ぼけているだけであったのだろうか。

 試合は、3−1で日本が勝った。私が知りたかったのは、ロスタイムに敵国が決めたというフリーキックがどういう形であったのかということだった。今の日本代表がUAEごときに負けるはずは無い。私にとっては失点が問題なんだ。なのに、どの番組でも、失点のシーンは一切、放映しなかった。求める情報を得る手段としてテレビジョンを選択したことは、間違いだったのだ。

 少なくともこのとき、テレビジョン放送は、私の時間を無駄に消費した。私は、テレビジョン放送に消費されてしまったのだ。ああ、悔しい。私の1時間は、現時点では■ッテリアで770円の値が付いているというのに。770円もあれば、煙草が7箱も買えてしまう。ああ、私はゴールデンバット7箱をドブに捨てたのだ。そんなことはどうでもいいが、悔しい。

 このときの、番組制作者の意図は、どうであったろう。サッカーファンよりも、野球ファンの方が多いのだし、できるだけ野球に時間を割いた方が視聴率が稼げると考えたのではないか。サッカーファンだって、失点シーンよりは得点シーンを見せてやったほうが喜ぶに決まっていると考えたんじゃあなかろうか。失点シーンから、日本代表の今後の課題を考えるような奴は、ごく少数なのだし、大衆は望んでいないだろうから、そんなものはカットしてしまえばいい。ジャイアンツが勝ったことのほうが、喜んでみる視聴者は多いんだし重要なわけだよ。

 偏見といわれようが、ねじ曲がっているといわれようが、私はそう感じたのだからそれでいいのだ。そういう、視聴率優先の、日本が快勝しましたという戦時下の情報操作的報道を、今のテレビジョン放送は選んでいるのだと、感じたんだから。視聴率を稼いてスポンサーから金をもらうというテレビ局の営利目的放送に、私の時間が消費されてしまったのだと、決定的に感じてしまったのだから。

 だいたい、テレビジョンというのはひとつのメディアだったはずなのに、その放送において、他のメディアである新聞を紹介するだけのコーナーがあるというのはどういうことなのか。ただ新聞記事を読み上げて、「〜と、いうことです」などと涼しい顔でアナウンサーは言う。と、いうことですとはなんだ。その記事にたいしてこれこれこうですという意見を述べるのならともかく、ただ新聞を読んで終わりということのどこに、メディアとしてのメッセージがあるのだろう。私が不勉強なのだろうか。あれに、メッセージがあるのだろうか。私の感受性に問題があるのだろうか。私が寝ぼけているだけなのか。確かに眠いし、腹も減ってはいるけれど。

 サッカーに限らず、今のテレビジョン放送からは、探している情報を得られないことが多くなってしまった。私は、テレビジョン放送を視聴することに、目的が探せなくなったのだ。うむ、僻みっぽさが薄れてきた気がするな。では、次へ。

●カタルシスからカタストロフィーへ

 テレビ局にも、2種類ある。国営テレビ局と、民放テレビ局。国営テレビ局は、法を盾にテレビジョン受像機を設置しただけで受信料を奪い、民放テレビ局は、営利目的の企業として、番組にスポンサーをつけて利益を得る。その性質は違えども、放送内容は、どちらも破局へと向かっているとしか思えない。そう考えてしまえば、私も良い夢が見られそうだ。焼酎だって、さぞかし旨かろう。

 民放テレビ局は、視聴率だけを考えて動いていることがはっきりとわかる。そういうことに決めた。だって企業だもの。企業は利益追求のために活動するのだ。民放テレビ局にとって、利益につながるものといえば、もちろん視聴率。不況であるからには、テレビ局だって財政には苦しんでいるであろう。深夜帯にはゴールデンタイムの番組を再放送してお茶を濁したり、まるでラジオにでもなったかのように歌謡曲を垂れ流したり、出来の悪いコンピュータアニメーションをずっと垂れ流し続けたりと、視聴率のとれない時間帯での露骨な経費削減は哀れにすら感じる。だいいちに、ゴールデンタイムという言葉自体が、視聴率第一主義を象徴している。いちばん視聴率が良く、金になるからゴールデンなのだ。露骨な言葉である。軟骨を塩で焼いたのは好きだけれど。高視聴率を得るためには、「視聴者に迎合した番組作り」がいちばん効果的である、という姿勢を露骨に出してしまっているのが、民放テレビ局の放送を軽薄にさせているのではなかろうか。ここまで書くと、なかなかに気分が良くなってきたぞ。もう少しやるとしますか。

 民放テレビ局とスポンサーを語るのに適している話題といえば、乱一世氏のあれだ。CMの間にトイレに立たれては、CMを観てもらえない。それでは、放送が商品として成り立たなくなってしまうではないか。あの一件以降、彼が不遇の1年間を過ごしたことは、営利目的の企業たる民放テレビ局からすれば当然の結果であったろう。また、放送自体がスポンサーの商品となるものもある。アニメーションなどは、スポンサーのおもちゃが売れるかどうかに、放送寿命が左右される。子供に人気が無くても、大きなお友達がグッズを大量に消費してくれれば、社会問題になろうとも放送は続投されるのだ。最近、通信販売の番組が多いのも、スポンサーが直接利益を得ようとしている卑しさを感じるとは思いませんか。あ〜、すっきりするね、ここまで言うと。快眠に至るまでは、もうすこし続ける必要がありそうだけれど。

 では、国営テレビ局はどうなのだろう。どうも、ボルテージの低さを感じてしまうのだな、これが。民放よりはよっぽどましなのだけれど、お役所仕事的なものを感じるじゃありませんか。放送法という決まりの中で金を得られることによって、番組制作における情熱というものは少ないように感じられてしまうのだな。情報を静かに垂れ流し続けるだけで、そこには、思想が存在しない。

 どちらにも言えることは、番組制作に関わる人々がカタルシスできていないだろうということだ。メディアでありながら、メッセージを送ることのできないという、メディアとしてのカタストロフィーを迎えている気がしてならない。番組制作に関わる人々の、存在証明でしかないような番組を観たところで、そんなものメッセージではない。あえてメッセージととるならば、それは、テレビジョン放送の断末魔なのかもしれない。

 テレビジョンの時代は、終わった。そして私は、カタルシスに浸るのであった。わっはっは。

●さよならテレビジョン

捨てられる技術 貧乏人は、限られたお金で生活することはもちろん、限られた時間も大切に使わなければならない。テレビジョンが、自分に必要な情報を発しなくなった今、貧乏とテレビジョンは無縁という結論に達したのだ。そして私は、安酒を旨く呑み、良い夢を見ることができる。

 1年ほど前から、私はテレビジョン受像機を持っていない。テレビジョン放送は、パソコンに内蔵されたテレビチューナ機能で視聴してやっている。必要なときに、作業のついでにテレビジョン受像ソフトを起動して観る程度で、テレビジョンを観る時間は少なくなった。しかし、そういった「必要なとき」も、次第に少なくなることであろう。そして、いつの日か、テレビジョン受像ソフトが削除される日が来るかも知れない。

 パソコンには、もう一つのメディア、インターネットへの接続環境があり、このページも、その環境でつくっている。インターネットというのも、メディアとしてはまだまだ未成熟で、必要な情報を得られないことが多い。広すぎるうえに、どれも浅いというのが実体だ。これは、インターネットがテレビジョンと対比されて育ってきたという点に問題があるのかもしれない。

 マス・メディアに踊らされる時代から、マイノリティー追求のためのメディア活用の時代へ、うまいことシフトしてくれれば、私としてはより旨い酒が呑め、より良い夢が見られる日が来るのだけれど。

 テレビジョン受像機をリサイクルショップが引き取ってくれるうちに、とっとと売り払ってしまおう。米が買えるのである。


●連載記事

新・貧乏物語

 皆様、こんにちは。私、貧乏な故、全日本貧乏協議会の会長を勝手に務めている川上卓也です。アルバイトという名の無職です。
 「会長ぉ〜」
 ん、誰ですか、あなた。
 「あ〜あ。とうとう、暑さで頭がイッちゃったのけ、会長。おら、シゲだっぺよ」
 ……言われてみれば、シゲ君のようですね。どうしたんです、白いつなぎなど着て。
 「さすがにこの暑さだからね。迷彩は辛いんだよ」
 若いのに、この程度の暑さで根をあげるなんて情けないですよ、シゲ君。
 「家の中とはいえ、トランクス1枚でうろちょろしている人に言われたくはないよ」
 君、だんだんに言うことがきつくなってきましたね。確かに、トランクス一丁の人間に言われたくはないでしょう。ただ、人間も二十歳を過ぎると暑さには対応できなくなるのです。
 「二十歳過ぎたって、暑い中で頑張っている人は大勢いっとな。自分の都合を、さも一般論みたく語るのは馬や鹿のやることだど」
 ええい、反論できないだけに癪にさわるのですよ、君は。しかし、いずれはそうなると思っていましたが、高校在学中にそこまで来るとは、私にも予想外でしたよ。
 「春には高校も卒業しちゃうしさ、そろそろ準備をしないと」
 原付を5台も率いて石下から赤城山まで遠征してくるのも、その一環なのですね、シゲ君。
 「可能なシミュレーションはこなしておかないと。時間は有効に使わないとね」
 いやはや、参りました。これ以上、苛められないうちに本題に入るとしましょう。

第2部 『時間という商品』
第3章 『自分という商品の値上げ』

 シゲ君、流通というのを知っていますか。
 「無駄なポイントを多く設けることで、商品の値段がつり上がる仕組みでしょ」
 相変わらず、素敵な解釈ですね。さて、時間というのも商品ですから、当然、こういった仕組みが時間という商品に対しても存在しています。
 「中間搾取者だね」
お正月の思いで  はい。たとえば、私がお正月に店頭販売で福袋を36個、完売させたとします。完売までにかかった時間は2時間。36,000円の売り上げになります。
 「あの、おもちゃ屋で売れ残ったゴミを寄せ集めて袋に詰めたやつのことだね」
 そういうところで真実を語らなくても良いのですよ、シゲ君。まあ、いい。しかし、36,000円の売り上げを出した私には、1500円のバイト代しか入ってきませんでした。残りの、34,500円はどこへ行ってしまったのでしょうね。
 「■ッテリアという組織が吸い取ってしまったんだな」
 はい、そのとおりです。確かに、店舗の維持費、ゴミ……のような福袋のコスト、社員の給料などなど、この売り上げからまかなうわけですし、私は、労働力を時間という単位で売っているわけですから、当然といえば当然です。
 「組織に属している以上、労働の質とは関係なしに、時間分の金しか貰えないよね」
 そうです。しかし、現代社会においては、組織に属することなく自分の時間を売ることは、なかなか難しいのです。あの福袋を夜なべして作ったり、販売するための場所を見つけたりすることを考えると、仕方がないのですよ。とほほ。
 「現代を生きるには、組織に時間を売るのが手っ取り早いよね」
 はい。しかし、組織に売る時間が長くなればなるほど、自分の時間を使って生み出した利益の多くを、組織に吸い取られてしまうことになります。これは、損失と呼べるでしょうね。
 「いまいちしっくりこないけれど、まあ、そうかもしれないね」
 黙ってうなずいていればよいものを、いちいち、もの言いたげにしますね、君。まあ、いい。損失を少なくするためには、組織に売却する時間を少なくする必要があります。当然、収入は減りますね。
 「バイトの社会保険適用を全廃されたりすると、月に120時間までしか働けないわけだ」
歯車 私のアルバイト先の話はどうでもいいんですよ、まったく。組織に属する時間を少なくするためには、自分を維持するコストを削減することが、いちばん手っ取り早いとは思いませんか。
 「時給の高いアルバイトを捜すって方法もあっと」
 そういう仕事は、疲れるからいやです。
 「根性無いものな、会長」
 はいはい、どうせそうですよ。こうして暑い日にはトランクスでうろちょろしてますよ、どうせ。しかし、考えてみてください。より時給が高く、より疲れるアルバイトを選択してしまうと、組織に属さない時間も、その疲れを抜くために使わなければならなくなるのですよ。
 「そりゃ、会長の問題でしょ」
 ええい、いちいち五月蠅いですね。話を戻しますよ。自分の時間をより多く得るためには、組織に売却する時間を最小限に押さえる必要があります。その最小限とは、最低限の生活費が稼げるだけの時間です。
 「自分を維持するためのコストを減らせば、最小限も更に少なくできるって話だな、どうせ」
 どうせとはなんですか、どうせとは。
 「つまり、自分の時間を得るための貧乏生活、である」
 あっ、あっ、人のあんちょこを勝手に見るんじゃありません。やっと、この物語の中で貧乏生活という言葉が出てくる重要なシーンだったのに。うぅ……。

 人間、なにかひとつくらい、やりたいことがあるはずです。シゲ君だって、あるでしょう。
 「もちろん、あっとな。秘密だけど」
 何かをつくり出すことにこそ、究極の喜びがあるのではないかと、私は考えています。組織に、最小限の時間を売却することで得られる僅かなお金で自分を維持しながら、そのほかの時間は、自分のやりたいことに使う。
 「自分を維持するためのコストを削減するのに、いちばん手っ取り早いのが貧乏……か」
 はい。貧乏をしながら、限りのある時間をできるだけ自分のために使うことで、自分という商品の値上げをしていく生活。これぞ、私が求める貧乏生活のかたちなのですよ。
 「遊ぶ金がないだけの連中が、気軽に貧乏っていう言葉を使うもんな」
 そのような人々がお金を使ってくれるおかげで、私のような貧乏人が生きていけるのです。感謝したいですね。
 「顔がにやけてっど」
 私は、いつでもこういう顔なのですよ。コホン。自分という商品の値上げとは、やりたいことの達成、夢の実現ですね。それによって利益が出るようになり、それだけで暮らせるようになれば、もう、言うことがありません。
 「それで収入を得るからには、苦労もあるだろうけどね」
 まあ、組織に属して時間を売り続け、損失を出し続けるよりはよっぽどいいですよ。それに、自分の定価を上げるという行為こそ、究極の遊びだと思いませんか、シゲ君。
 「自分がどこまで行けるか。人生を賭けた遊びだね」

 こうして、第2部も無事に終わろうとしています。
 「よくもまあ、6回も続いたね」
 余計なお世話ですよ。まったく。一億総貧乏時代の幕が開けた今、どうあがいても、ろくな時代にはならないでしょう。どうせ、経済状況は傾国債民なのですから、転がり落ちるよりも、自分から降りていったほうが、できることは多いはずです。
 「心に余裕ができる、と」
 また私のあんちょこを覗きましたね、シゲ君。まあ、いい。いよいよ、来月からは第3部になります。
 「いったい、どうやってまとめる気なのか、楽しみだな」
 舌好調ですね、シゲ君。第3部は、『時を得る貧乏生活』と題して、やはり3部構成でお話しします。引き続き、シゲ君にもつき合ってもらいますよ。
 「仕方がないなあ」
 やる気なさそうですね、君。まあ、いい。あ〜、しかし暑いですね。なにか涼しくなる方法はないでしょうか。
 「鬼怒川でも流されてみればいいじゃん」
 シゲ君、まだ5月のことを根に持ってますね。
 「そんなことはないよ」
 そうですか。それなら良いですけれど。

 では、会長は帰るぞ

第3章 完
第2部 完
文責:全日本貧乏協議会会長 川上卓也


うさちんのちょっと北の国から だい1かい
ゆでたまごのおもいで
 忘れもしない。小学3年生の時の遠足で、皆、ママさんに作ってもらったお弁当をウキウキと広げている中、クラスメイトのE君がゆでたまご片手に悲しそうな顔をしていた。

 どうしたんだろうと覗き込むと、ゆで卵と一緒に小袋に入った塩が。
「気がきいたママさんなんだなー」と一瞬思ったが、その小袋には「お清め」という文字が・・・。それは葬儀で配られる身を清めるための塩であった。

 動揺しながらもお清めの塩を振りかけながらゆで卵を食べていたE君のことが未だに忘れられない。

 その後、彼がなぜヤンキーの道に走ったのか、私にはわからない。

筆者紹介:うさちん

 当協議会宛のメールに「気分はもうすっかり全日本貧乏協議会会員気分」などと書いてしまったが為に、連載コラムを書かされる羽目になった可哀想な人。

 節約術集積サイト『節約倶楽部』の主催者として、今ではちょっとした有名人となっている。節約倶楽部のアクセス数は、今頃はきっと当協議会のトップページのアクセス数を越えているのではなかろうか。うらやましい。


特別寄稿
鯖吉老人妄言記 (酒と貧乏についての与太話)

 儂が鯖吉である。
 とは云っても誰も知らんじゃろうがのう。
 昔は瘋癲老人などと云われて人気者だったんじゃよ。時々日記なども書いていたんじゃが、近頃は、眼は疲れるし、肩も凝るしで、物はよう書かんようにしておったんじゃよ。
 じゃが以前、会長に「何か書いてくれ。一杯のませるから。」と夢みたいなことを言われたのをふと思い出したので、一寸駄文でも書いて安酒の一杯にでもありつこう、と、こういう魂胆なんじゃよ。(むふふふ)

 鯖吉と云う名前は今で云う<ぺんねえぇむ>であるのは勿の論じゃよ。
 もっとも、昔の文献には儂と同じような名前は出てくるんじゃよ。

 「鯖吉先生の伝」と云う本には次のようにある。

先生は何許の人なるかを知らざるなり。亦た其の姓をも字をも詳らかにせず。酒の辺に常に鯖の酢〆あるを吉とす。困りて以て是を号と為す。
怠惰にして労少なく、貧困を厭わず。飲酒を好めども、甚だしくは購入することを能わず。意に会う人ある毎に、便ち垂涎して恥をも忘る。性、酒を嗜むも、家貧しくして常には得る能わず。親のもの旧のもの、其の比の如くなるを知り、域に酒を置らえて之を招けば、造れ飲みて輒に尽くし、期うところは必ず酔うことに在り。
既に酔えど中々帰らず。いささかも人の迷惑には心を留めず。環き堵は蕭然として風をも日ざしをも蔽ぎらず。短き褐は穿あき結び、箪も瓢も屡しば空しきも晏如なり。常に酒肴を想いては自ら娯しみ、頗か巳の志を示す。懐いを現つに忘れ、酔いを以て自ら生くる。
 まるで儂のことのようじゃが、もちろん儂のことではない。この本は、四世紀の末から五世紀の初めにかけてのころ、東晋末期の中国が生んだ大詩人が書いたものなのじゃよ。
 もっとも儂も酒好きでは人後に落ちぬがな。まあ、酷い貧乏であることには大した変わりはないのう。
 儂の貧乏は生まれついてのもので今更どうしようもないものだが、会長はまだ若いし、貧乏生活に慣れていないので大変だとは思うが、たまには酒でも飲ませてくれたまえ。

 老人を大切にすると云うことは、自分をも大切にすることなんじゃ、と昔の中国の偉い人も云っておるのを知らぬ訳じゃなかろう?……あぅ!
 しかし、貧乏と酒というものはつきものだな。一寸思い出しただけでも色々あるのう。
 昭和が生んだ行乞の俳人は酷い貧困生活の中ででも酒だけは飲んでおるのう。
 彼の日記の中でも、金が無いのに酒だけはよく飲んでおるのじゃよ。

 三月一日 晴。
酔っぱらって、また泊まってしまった。

 三月二日
酔境に東西なく、酔心に晴曇なし。

 三月三日 曇
さみしくも風が吹く。……

 三月四日 雲
昨日も今日も絶食。そして明日!
其中雑感
  戦争、貧乏、孤独。
  散歩、酒、業。

 三月五日 雲−雨
外出途中、今日はとても飲みたかったが、地団駄踏んで我慢した、善哉々々!
火燵がいらなくなった、火鉢もわづかの火ですむようになった、ありがたい、ありがたい、それにしても私のように大飲したり大食しないですむような生活方法はないものだろうか!

 三月六日 雲、おりおり雨
絶食四日で、さすがの私も少々ひょろひょろする。

 三月七日 晴れたり曇ったり、そして降ったり。
六日ぶりに飯を食べ酒を飲んだ、まことにそれは御飯であり、お酒であった!

 三月九日 雲
朝から飲む(悪い癖だがとうてい止まない)

 どうじゃな、君達の人生と比べてみると結構はちゃめちゃな人生を送っているじゃろ。
 一度こういう生活を送ってみると一つの真理が見えるとおもうが、どうかな?
 儂も若い頃にはこれと近いような暮らしをしてきたが、なかなか楽しいものじゃて。
 貧乏と云うものは、この俳人のように喰えない、飲めない、寒さが防げない、等というところまで行かないと、常人には見えない世界が見えてこないらしいのう。
 もっとも、見えたら見えたで次の世界が待っているらしいのじゃがな。

 俳句、酒、托鉢、貧困。なかなか凄まじい人生を送った人じゃな。とうていぐうたらな儂などには真似のできないことじゃが、ある意味では羨ましくもあるな。
 写真、酒、放浪、貧困。こうくると会長のことだが、俳人のようになれるであろうか。

 酔ひしれて路上に眠るひとときは安くもあらん越したまふな 行乞の俳人

 棺桶も風呂もさしたる違いなし浮き世の憂さを忘れて入らむ 鯖吉老人

 儂も一度このような著名人と肩を並べてみたかったんじゃよ。まあ、これがやりたくて書き始めたようなものじゃがな。

 そうそう、貧乏のことじゃ。
 君見ずや管鮑貧時の交り
 と、これまた中国の有名な詩人がうたっておるのう。
 貧困の中で生まれた友情は美しい。と云う詩なんじゃが、君も儂もお互い貧乏の中で年代を超えて友情を育んで来たんじゃから、一刻も早く金持ちになって儂に一杯飲ませてくれたまへ、会長!
 肴は、そうじゃな、やはり鮑じゃな。水鮑などさっぱりしていて好いのう。

 唐突で申し訳ないが、尾辻克彦に、あまり貧乏なので、ハナクソを喰っていたことなどを書いた文章があるんじゃが、ハナクソを喰いながら飲む酒の味はどんなであろうかのう、ちょっと塩味などきいていて……

 閑話休題
 貧乏と貧乏性、似ているようだが一寸違う。辞書を引いてみると解るが、貧乏のところには鬼々迫るような言葉が出てくるが、貧乏性とは、「ゆとりのある気分になれない性質・ものごとにくよくよする性分」とあるな。
 このあたりのことについては、色々面白い話もあるのじゃが貧乏と酒の話と共に又の機会にしよう。

 儂も慣れない<きいぼおど>なんぞ打ったら目も肩も腰もガタガタじゃわい。
 風呂でも入って〆鯖つまみに麦酒を飲むとするか。

 ぢゃ……   そのうちに、また。


●投稿記事

貧乏臭辞典

ベンツで食べ放題 看板に激安を謳った焼肉店の駐車場でベンツを発見。いくら豪快に肉を頼んだところで所詮は激安店。なんだか貧乏くさい。類似語としては、ファミレスにBMWとかが挙げられるでしょう。それがデートだったりしたら、もう貧乏臭さは絶大。

そこでケチったらだめなんだって。

投稿:モジ子


読者の声

6月号にのっけていただきました、myuです。あれから貯金は順調にすすんでいるのですが、あいかわらず、食べ物に困ってます。貧乏料理でも考えようかな‥‥

ところで、このまえクローゼットをごそごそしてるときにものすごーくボロっちいカメラでてきたんです。『PENTAX OM-1』って書いてるんですけど、カメラ屋さんにもっていくと「よく生きてたね」と言われました。
私、一応マニュアルカメラ使えるのです。
写真撮ったらのせてもらえます??

投稿:MYU

OM-1というと、オリンパスだったような気もしますが、編集者の不勉強かも知れません。

古いカメラであっても、写真は撮れるんですよね、ちゃんと。私も5,000円で買ったNikomatFTnを愛用しております。それしかないだけって話もありますが。

写真、送っていただければ掲載させていただきます。貧乏料理を、写真付きでご投稿いただけると嬉しいです。

標準レンズしか持っていない編集者

はじめまして。いつも楽しく拝見させていただいております。いと風流な草庵暮しのご様子、たいそううらやましく存じます。(^^)

お家の様子を伝える写真などがとりわけ素敵ですね。そのうち、会長殿の家計簿なども拝見しとうございます。

どうぞよろしくお願いいたします。

投稿:都会のねずみ、ちゅう

草庵! 憧れです。残念ながら、我がボロアパートもまだまだ立派な部類に入るのではなかろうかと感じております。玄関開ければすぐに4畳半の一間だけの小屋。煮炊きは庭で行い、風呂は庭にあるドラム缶。そんな生活が夢です。

家計簿をつけて公開するというのは、以前、特集として企画はありました。ただ、ものぐさなものでして、続けられなかったのです。来年あたり、正月から3日間だけでもつけてみようかと……。

貧乏日記が続いていることだけでも奇蹟の編集者


●編集後記/次号のお知らせ

編集後記

■夏も日に日に弱まってきました。夜になれば、涼しく本を読めるようになり、ほっと一息。■ほっと一息といえば、この8月号。おかげさまで、耐乏PressJapan.も1周年を迎えることができました。■皆様の暖かい励ましで、ここまでくることができました。ここで、お礼を申し上げると共に、今後ともよろしくお願いいたします。■2年目、合併号だけは、なんとか避けたいと……。あはは。(か)
次号のお知らせ
耐乏Press Japan. 2000年9月号 9月中旬発刊予定

●特集

 未定(そろそろ食い物でも……)

●連載記事

 サンキファッション通信(6)
 新・貧乏物語(7)
 貧乏彩時記(4)
 うさちんのちょっと北の国から(2)

 
●投稿記事

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