おぞよもん暮らし
 久々、自分のために心をこめて、新米を炊き、塩にぎりを作った。米のやさしい甘味がふうわりと広がり、同時に荒塩がぴりっと味をひきしめる。ここ数ヶ月、激務が続き、カップラーメンやレトルトカレー、栄養ドリンクにたよっていたので、自分の重心がとれなくなっていた。やっぱり米がいい。それも時間におわれて炊いたんではなく、丁寧に研いでじっくり水を吸わせて炊いたもの。ぴかぴかの米の一粒は、どんな高価なサプリメントよりも効くような気がする。ああ今日も生きててよかったという思いを、米と一緒にかみしめた。

 この間、口から食べ物を入れるのは限界に近づいてきている方に胃ろうの打診があった。高齢になり、食べ物を飲み込む力が極端に弱くなると、胃に穴をあけチューブを付け直接栄養を流し込む「胃ろう」という処置をとる場合がある。いったん胃ろうになると、再び口で食べられる可能性は少ない。水分は何とか口からいけたとしても、固形物はほぼ無理だ。打診されたその家族さんは、お元気だった頃の本人さんの意思を尊重して、胃ろうはしないでほしいと言われた。「食べられんようになったら、あとは自然にまかせる。チューブをつないでまで生かされとうない」とおっしゃっていたとの事。ちなみに亡くなられた場合は献体登録もされているのだとか。もちろん、胃ろうにしてでも生きたい、生きてほしいという考えもあり、どれがいいのかは一概には言えないものの、口で味わう事で生きている事を味わっているのは確かだと思う。

 もし自分が口で食べられなくなるとしたら、その直前に何が食べたいかという話をした。50代のある人がしみじみと言った。
「昔、おかんが鍋でご飯炊いたあと、残りのおこげでおにぎり作ってくれたはって、それがおやつやってん。こおばしいて、塩がきいてて、ほんまにおいしかったわ。もう亡くなってしもうたさかい、叶わへんけど、最後に何食べたいて聞かれたら、あの塩にぎりがええわ。何度も自分であれこれしてみたけど、どうしても同じ味にはならへんのや。」
ちなみにこの人は、京都のお店をよく知る人で、「三条寺町、東入ったとこの店、テールスープが絶品え」とか「錦を下がったとこのお寿司屋さん、ネタがええんやわ」等という話題でよくもりあがる。しかし、おかんが…と言ったとき、その人の目の端には懐かしさとちょっとした切なさが入り混じっていた。

私もご飯は鍋で炊く。炊き上がり蒸らした後、しゃもじで底をさらったとき、おこげが出来ていると妙にうれしい。逆に少ないと「あんまりあらへんなぁ・・・」とがっかりする。おこげの部分をとり、塩を少し多めにきかせて握る。あつあつを口にすると一気に幸せが身体中に広がる。あともう少しほしいなと思うところでおしまいなのが、おいしさをより増しているのかもしれない。
 私も最後に何か口に出来るとすれば、おこげの塩にぎりがいい。あと出来れば、白ご飯の塩にぎりも二、三個ほしいし、辛子明太子でも一膳いただきたい。最後にしては食べ過ぎかもしれないが。

 今はいろいろな食べ物があふれすぎていて、お金に糸目をかけなれば何でも食べられる。しかし、人それぞれの根っこにあるのは、意外と素朴な食べ物のような気がする。素材の味と、作ってくれた人の“手塩”が生きたもの。お金もないし、時間もないけど、食べ物を心ゆくまで味わえる口はあるのだから、せめてご飯くらいはゆっくりかみしめたい。お金が少したまれば帰省して、母に塩にぎりを作ってほしいと言ってみよう。

筆者紹介:今井うさ
1979年生まれ。衣笠山のふもとで過ごした学生時代から、始末の精神と清貧生活にめざめる。
現在も京都のかたすみで、下駄をつっかけ、自転車をのりまわしながら、つつましく生息中。

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今井うさ おぞよもん暮らし 耐乏PressJapan.
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